1874年、父の久衞と母のテフ子の長男として生まれる。宮永小学校を卒業し、片端中等科(学制改革により卒業時は高等小学校)に進学。1894年(明治27年)、叔父の久恒彌十郎が村長であった豊田村役場の書記に就いた。1902年(明治35年)10月に下宮永の区長に就き、1910年(明治43年)まで務めた。
父の久衞は、旧幕時代には中津藩の硝煙製造を担っていたが、廃藩置県を受けてこれをやめて、線香の製造をはじめた。しかし利益が上がらなかったため、精米製粉業をはじめ、中津町内において米の小売業を営んでいる。1902年に久衞から家督を相続して、久太郎が家業を引き継いだが、公務多忙のため1904年には事業を貸与している。
1907年(明治40年)、豊田村会議員に就任。1910年から1922年(大正11年)まで、豊田村長を務めた。1925年(大正14年)に豊田村が中津町に合併すると、同町会議員となり、さらに1930年(昭和5年)の市制施行とともに同市会議員となった。1933年(昭和8年)から1939年(昭和14年)まで、中津市の助役を務めた。ほか、下毛銀行(現・大分銀行[注釈 1])監査役、ますや縄株式会社取締役などを歴任した。