大隅国国分郷浜之市(現霧島市)の人。山本勇右衛門の三男として生まれた。山元定蔵の弟で、のち久木村家へ入った。
文久2年(1862年)、島津久光の東上に従い江戸へ向かい、その帰途、生麦村で奈良原繁らとともに外国人を殺傷した(生麦事件)。鉄砲隊に属していた治休は、一太刀を浴びせたと伝えられる。
昭和11年に雑誌『話』へ寄せた本人の回想によれば、当時外国人4名は行列を避けながら徐行しており「踏み込み」の事実はなく、後方で既に斬られて負傷した者が自分の前を通過しようとしたため、とっさに横一文字に斬りつけたという。すべては混乱の極みのなか電光石火で起こった出来事であったと述べている。
維新後は警視庁に出仕し、明治5年に少警部に任じられた。その後、明治9年の萩の乱、明治10年の西南戦争に従軍した。明治18年3月18日、憲兵大尉となり、同年5月7日には正七位に叙せられた。明治24年11月20日、憲兵隊大尉として予備役に編入された。
その後も日清戦争・日露戦争 に出征し、歩兵少佐に昇進した。
昭和12年(1937年)10月20日に死去した。養子にのちの陸軍少将久木村十郎次を迎えた。