久水三郎 From Wikipedia, the free encyclopedia 久水 三郎(ひさみず さぶろう、1856年7月20日(安政3年6月19日)- 1941年(昭和16年)5月18日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は正四位・勲三等。 長澤屋宗の二男として生まれる。後に八戸藩士の久水金平の養子となった。1871年、東京に藩費留学生として依儀社で学んだ。1873年、開拓使学校に入学、在学中に御前講義を行い御賞を賜った。1877年、外務省の学生となった。1879年より3年間イギリスの軍艦が日本の沿岸測量中に乗込むことを命じられた。1880年に分家した。 1882年、花房義質公使に随行して朝鮮に赴任し、同年7月の壬午軍乱で襲撃に遭い、命からがら脱出した。1883年に仁川領事官に勤務した。1885年に領事代理を命じられ、元山や芝罘に在勤した。1893年2月に二等領事に任じられ、安東県民政庁芝罘に在勤した。1897年11月に一等領事となり、木浦、タウンズビル、シンガポール、シアトルの各領事を務めた。その間アフリカや欧米、北米などを視察し、セントルイス万国博覧会の評議員を務めた。1908年6月に韓国統監府理事官に移り、大邱理事庁に在勤した。1909年5月には元山理事庁理事官となり、1910年に朝鮮総督府設置と共に府尹に任じられ、仁川府尹を務めた。墓所は青山霊園。 家族 妻のわかは慶応元年7月に、東京平民の鈴木忠蔵の長女として生まれ、昭和5年1月12日に没。 養子の恒哉は明治21年2月生まれで、八戸の久水秀夫の弟。八戸の議員や宮古林業株式会社取締役を務めた。 二女の三和は明治26年6月生まれで養子恒哉の妻。 長女歌は明治21年10月生まれで、外交官河上謹一の長男で銀行家の河上弘一の妻となった[1]。 脚注 ↑ 人事興信録第4版 久水三郎 Related Articles