久米川宿
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律令制のころ、少なくとも奈良時代には武蔵国府と上野国、下野国、信濃方面を結ぶ官道の宿駅として存在していたと言われており、鎌倉時代には鎌倉街道の宿場として栄えた[4]。久米川宿の名が文献に初めて見られるのは1271年(文永8年)10月22日、佐渡に島流しとなった日蓮が久米川宿に一泊した際の書状である[5]。街道沿いであったことから鎌倉時代にはしばしば合戦が起こり、特に鎌倉時代末期に起こった新田義貞と鎌倉幕府の戦いである久米川の戦いが有名である[6]。
1455年(享徳4年)、足利成氏が鎌倉を脱し、鎌倉が政治の中心で無くなったことで久米川宿は廃れ始める[7]。戦国時代には北条氏の台頭により鎌倉街道の往来が減少し、この頃所沢の発展もあって久米川宿は寂れていく[8]。更に江戸時代には江戸と上野国を結ぶメインルートが中山道となったことで完全に宿場町としての久米川は消滅し、府中と所沢、川越を結ぶ府中道沿いの農村となった[4]。
脚注
- ↑ 『東京風土図 第4』1962年。doi:10.11501/2982421。https://doi.org/10.11501/2982421。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 『東村山発・明日への招待状 : 新しい時代に向けて飛躍する私たちの街 東村山市勢要覧1989』1989年。doi:10.11501/13103292。https://doi.org/10.11501/13103292。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 『東京都古代中世古文書金石文集成 第2巻 (古文書編 2 南北朝~室町)』1994年。doi:10.11501/13134561。https://doi.org/10.11501/13134561。2025年12月1日閲覧。
- 1 2 『多摩の地名』1980年。doi:10.11501/9641896。https://doi.org/10.11501/9641896。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 『清瀬・田無・保谷・東久留米・東村山史跡散歩』1979年。doi:10.11501/9641824。https://doi.org/10.11501/9641824。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 『新田義貞の鎌倉攻めと徳蔵寺元弘の板碑』1983年。doi:10.11501/9643095。https://doi.org/10.11501/9643095。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 『武蔵野歴史地理 第3冊』1972年。doi:10.11501/9641027。https://doi.org/10.11501/9641027。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 『多摩の歴史 2』1975年。doi:10.11501/9641044。https://doi.org/10.11501/9641044。2025年12月1日閲覧。