久野昌純 From Wikipedia, the free encyclopedia 久野 昌純(くの まさずみ、天明7年6月3日(1787年7月17日) - 文政6年7月24日(1823年8月29日)[1])は、紀州藩田丸城代家老久野家7代当主。 父は久野輝純。子は久野純固。幼名は為太郎。初名は光純。通称は伊織。 天明7年(1787年)、田丸城代久野輝純の子として生まれる。文化8年(1811年)1月に父輝純が死去したため、同年2月に家督相続し、田丸城代となる。病身のため、田丸城に入城することは一度もなく、江戸への答礼も家臣が代理している。文政6年(1823年)7月24日死去。享年37。墓所は玉城町大得寺[2]。家督は嫡男の純固が相続した。 脚注 ↑ 『田丸郷土誌 (三重県郷土資料叢書 ; 第60集)』pp.103-104。 ↑ “三重県度会郡 大得寺/久野家墓所 | 試撃行” (2022年7月15日). 2026年3月30日閲覧。 参考文献 池山始三『田丸郷土誌 (三重県郷土資料叢書 ; 第60集)』三重県郷土資料刊行会、1977年 関連項目 田丸藩 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles