亀田藩士秋田退散事件

From Wikipedia, the free encyclopedia

亀田藩士秋田退散事件(かめだはんし あきた たいさんじけん)は、1761年(宝暦11年)4月に出羽国亀田藩から100人以上の藩士が脱藩して、隣接する久保田藩(秋田藩)へ赤平白山越え[1]で逃れた事件である。脱藩者の中には藩主一門の岩城八百之助(やおのすけ)、同じく岩城帯刀(たてわき)、家老の大内図書(ずしょ)という重臣3名が含まれていた。藩内の対立で藩士が他藩に訴えるという事態は、明るみに出れば御家断絶になり兼ねない大事件であった[1]

退散の理由は、藩財政の困窮による俸禄の削減のため、藩士の生活が困難になったことに起因する。秋田藩と亀田藩の調定により、中心となった3重臣を除く全ての脱藩者は帰国したが、1765年(明和2年)に遅れて帰国した3重臣の処遇が秋田藩との約束に反して悪かったため、1770年(明和7年)3月から1784年(天明4年)12月まで秋田藩と亀田藩は絶縁状態になった。

この騒動に関して残されている記録は、すべて秋田藩のものであり、他方の当事者である亀田藩ならびに関与した仙台藩からは発見されていない。したがって、この事件は秋田藩の立場から考察を進めざるを得ない[2]

亀田藩主である岩城氏と秋田藩主佐竹氏及び仙台藩主伊達氏との複雑な関係は戦国時代にまで遡る。

戦国時代、岩城重隆は男子がいなかったため、娘婿である伊達晴宗に頼んで晴宗の嫡男(重隆には外孫)である岩城親隆を養子に迎えて岩城氏を継がせた。ところが、親隆の息子である岩城常隆が急死した際、常隆の実子は幼少であったため、豊臣政権は後の初代秋田藩主・佐竹義宣の弟である岩城貞隆を後継者と定めた(義宣と貞隆の母は親隆の妹)。岩城氏を追われた常隆の遺児・隆道は初代仙台藩主である伊達政宗(親隆に代わって伊達氏を継いだ伊達輝宗の子)に庇護され、後に伊達政隆を称して仙台藩主の一門として「岩谷堂伊達家」を創設した。

その後、岩城氏を継いだ貞隆の子である岩城吉隆は紆余曲折の末に初代亀田藩主となったが、後に義宣の養子となって秋田藩の2代藩主になっている。このため、秋田藩は亀田藩の検地・城下建設などを全面的に支援している。しかし、5代藩主の岩城隆韶は仙台藩からの養子であり、これ以降の亀田藩は秋田藩との関係が薄れ、仙台藩との関係が強まっていった。そして、男子のいなかった隆韶は佐竹氏一門からではなく、伊達氏一門それも岩谷堂伊達家の岩城隆恭を養子に迎えた(ただし、途中で養子縁組が入っているため、岩城常隆とは直接血のつながりはない)。やがて隆恭は亀田藩の6代藩主となった。なお、秋田藩主は8代・佐竹義敦である。

この事件より約100年前の1679年(延宝7年)、秋田藩の物流の大動脈である雄物川のうち3kmほどが亀田領内にあることを根拠として、亀田藩が川船に税をかけた大正寺論争が起きていた。この時は最終的に亀田藩が課税を断念したが、この論争を始めとする軋轢が積み重なって、亀田藩と秋田藩の関係は次第に悪化していた。そして事件中の1770年(明和7年)、亀田藩は再度川船へ課税した。秋田藩は当該区間だけを陸送することで対抗しようとしたが、輸送量が多く賄い切れなくなり混乱を来した。論争は1772年(明和9年)に江戸幕府の裁定が下り、亀田藩の全面敗訴となった。

経過

脚注・参照

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI