スペインかぜの流行で、予防隔離の類まれな成功に貢献した要因は以下の通り。
- コミュニティのリーダーが、感染が広まる前に、パンデミックがもたらす危険性を認識して、早期に隔離策を実行した(近隣のコミュニティが行う前に)。
- 常にではないが、一般に存在していたコミュニティの遠隔性と自然の障壁を利用して、指導者はコミュニティの周りに防疫線を設置した。
- コミュニティに入ろうとする人は誰でも潜伏期間中は隔離され、感染していないと確認してからでないと入れなかった。さらに、人間同士の接触をなくした方法で物資を受け取るシステムを作った。
- 保護区の生活がなるべく正常になるように、家族はひとまとめにされた。引き続き、学校では授業を行い、礼拝所も開かれたままで、人々は働くことができ、娯楽も利用可能だった。
- リスクがある間は予防隔離が継続し、住民が落ち着きを失わない程に短かった。
歴史上で最も有名な例は、スペインかぜ流行中にコロラド州ガニソンでとられた手段である。感染が広まらないように防ぐために、1918年の終わりの2ヶ月間、周辺地域から自主的に隔離した。すべてのハイウェイは郡の境界付近で閉鎖された。列車の車掌はすべての乗客に対して、ガニソンで列車の外に出た場合は、拘束され5日間隔離されることになるだろうと警告した。スペインかぜで死者こそ出なかったが[1]、長期間持続可能なものではなかった。住民は急速に落ち着きを失って、制限は1919年2月に解除されたが、3月にアウトブレイクが直撃して、5人が亡くなった[2]。いくつかのコミュニティでも同様の手段が採用された[3]。
プリンストン大学は予防隔離を利用して死者が出ないようにした[4]。
南太平洋では、アメリカ領サモア知事John Martin Poyerが、来航するすべての船に対する逆防疫線を設置して、スペインかぜ流行中において、死者を0人に抑えることに成功した[5]。対照的に、ニュージーランド領西サモアでは、最もひどい打撃を受けて、感染率90%で成人の20%が亡くなった[6]。
1918年後半、スペインは、出入国管理、道路封鎖、鉄道による移動の制限、病人が乗っている船を上陸させないための海上の防疫線の設置でスペインかぜの広がりを防ごうとしたが、すでに流行が進行していたために失敗した[7]。