幼くして聡明で、志篤く学問を好み、策問に応答する文章をたびたび上書したが、任用されることがなかった。天祐13年(916年)、李嗣源が安国軍節度使となったとき、徳辰は面会に赴いた。李嗣源にその器量を認められて、邢州の属県の官に仮任用された。のちに州県の官を歴任した。
後漢の乾祐元年(948年)、徳辰は右諫議大夫から兵部侍郎となった。乾祐3年(950年)、御史中丞に転じた。
後周の広順元年(951年)、徳辰は尚書右丞に任じられた。広順2年(952年)、吏部侍郎となった。顕徳2年(955年)、太子賓客に転じた。顕徳3年(956年)5月28日、死去した。