五島運龍は富江領主五島盛恭の嫡子として生まれ、寛政元年(1789年)11月5日、10歳で家督を継いだ。寛政7年(1795年)12月15日には将軍徳川家斉に拝謁し、享和3年(1803年)に入部した。
文化5年(1808年)の領政改革では学事の刷新に努め、領校成章館を再整備して文教の充実を図った。文化12年(1815年)1月17日、大番頭役勤務中に2000石の足高を加増され、同年15日には従五位下・伊賀守に叙任された。のちの文政4年(1821年)には二条在番として幕府より太刀馬代奉献の使者を務め、文政6年(1823年)5月4日に白金今田村に下屋敷を拝領し、小石川の下屋敷を返上している。文政9年(1826年)11月12日に側衆となった。
領政では殖産興業の振興に積極的で、勤農方・海産方の二役所を設置し農産・海産の増殖を促進した。陶器・製紙・製塩・養蚕などの諸産業を奨励し、捕鯨事業の改良にも着手。女島の漁場を整理して軍隊的組織に整え、富江半島一帯に松を植林して防風林とした。また長峯郷には牧場を設け馬の繁殖に努め、大名より小禄の旗本ながら産業振興の成果を挙げた。
文教面では関松窓・山本多仲・倉成龍諸らの儒学者を招いて家臣教育を行い、寺子屋の設置や遊学の奨励で人材育成を進めた。
外交・国防面では、享和元年(1801年)に呂宋軍艦が領海に入港して騒ぎとなった際、運龍は迅速にこれを長崎に送致し、国威を損なわなかったとされる。
天保12年(1841年)4月に修理亮に改め、天保13年(1842年)7月28日に側衆を免ぜられて柳間詰となり、天保15年(1844年)4月に筑前守に改め、同年9月6日に没した。享年65[注釈 1]。その政治手腕と文化・産業振興の功績から、運龍は「名君」と評された。