旧幕臣として知られ、維新後は軍務に就く。明治5年(1872年)には陸軍中尉に任命されるもすぐに海軍へ移る、同年、五藤国幹らによって木更津近海の測量が行われた。12月には水路寮権頭の直接指揮による測量が開始され、その彩色測図が翌明治6年(1873年)1月に明治天皇へ上覧されたという。この木更津測量は東京湾測量の端緒と位置づけられている。
明治6年(1873年)には海軍省大録・八等出仕とされ、同年、柳楢悦艦長の指揮する軍艦春日艦に乗艦して蝦夷調査に従事した。この点に関連し、『春日紀行』は国幹の名を「幹国」と記している。翌明治7年(1874年)には海軍大尉となった。
同年、観象台が完成して水路寮の管轄となり、9月に金星日面通過の観測が実施されると、各国観測隊が来日した。フランス観測隊は神戸諏訪山で観測を行い、水路寮から五藤国幹が派遣された。
明治13年(1880年)には海員掖済会の発起人の一人に名を連ねた。明治15年(1882年)9月7日には、朝鮮の大同江を視察するため、天城艦で巡航している。明治16年(1883年)には海軍少佐となった。
明治18年(1885年)6月24日には、京橋区の厚生館で開催された大日本水産会第33回小集会に出席し、当日の品評品として干しダコを出品したことが記録されている。
退役後も「退役海軍少佐」として扱われ、大正9年(1920年)4月1日に死去した。子として、海軍主計中監となった五藤兵司がいる。