井上康文
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戦前・戦中
神奈川県小田原市出身[3]。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた[1][3]。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める[1][3]。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派[6]」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された[3]。
さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会[2]。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した[3][6]。この溝が埋まることはなく、北原や西条八十らは1921年に詩話会を離脱[7]して「新詩会」を結成[4]。井上もまた詩話会の閉鎖的な運営に不満を感じ、分化する形で「詩人会」を設立、新人の作品発表の場を兼ねた機関誌『新詩人』を発行した[4]。『新詩人』は1924年に廃刊するが、1927年には改めて「詩集社」を結成。1934年まで『詩集』を発行した[8]。これらの同人活動と並行して、始まったばかりのラジオ放送に積極的に出演し、詩や映画を題材とした講演を行った[4]。また、民衆詩派の作品はラジオ放送で定期的に朗読された[9]。
太平洋戦争初期、日本統治下での文化工作や宣伝活動といった「宣伝戦[10]」のため多くの文学者やジャーナリストが南方に動員された[9][11]。井上もその対象となり、海軍報道班員としてラバウルやトラック諸島に派遣される[9][12]。期間中は現地での宣伝活動に従事したほか、帰国後には随筆集『水兵の眼』や愛国詩『祖国を護る』など、戦意高揚を企図した作品を発表した[9]。愛国詩の朗読もまたラジオ放送で人気を博した[4][9]。
戦後
戦後は産経新聞の記者を務めながら執筆活動を継続。1950年には「井上康文詩の朗読会」を設立した[13]。また競馬にも深く携わり、「日高駿一」の筆名で週刊サンケイに競馬記事を寄稿していたほか、『井上康文の競馬学』などの作品も著した[13][14]。その一方で地元小田原でも精力的に活動。福田正夫の七回忌であった1959年には小田原城址公園内に「民衆碑」を建て、民衆詩派を記念した[13][15]。また、桜井小学校[16]や白鴎中学校[17]など、市内小中学校の校歌も作詞した。