井上道節因碩
日本の囲碁棋士 (1646-1719)
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経歴
美濃国大垣に生まれる。1歳年長の本因坊道策の弟子となり、七段準名人に進み門下の五弟子(五虎)、または六天王と呼ばれた一人であった。
本因坊跡目には1684年に小川道的が選ばれるが1990年に死去。道節は跡目の座をめぐっての争碁をのぞんだとされる。元禄3年(1690年)に道策の弟である三世井上因碩(道砂因碩)の養子となり、跡目とされる。ただし、道節は道砂より年上であった。道節はこの1690年に御城碁に45歳で初出仕。
次いで1692年、佐山策元が本因坊跡目に選ばれるが、1699年に死去。二人の弟子の夭折後も道策は神谷道知に期待する。
元禄9年(1696年)に井上家三世因碩が没し、翌年、道節は井上家の家督を継いで四世井上因碩となる。
元禄15年(1702年)の道策臨終においては、因碩を八段準名人に進めるとともに道知の後見を託し、碁所を望まないとの誓約書を書かせた。これにより因碩は本因坊家に居を移し、道知を指導した。宝永3年(1706年)61歳の時、15歳の道知と十番碁を打ち、道知定先で3勝6敗1ジゴとなった。この時の第6局は、因碩の16手目が小目から5線の上大ゲイマにシマッた誤った棋譜が長年伝えられ、「上大ゲイマ締まりの一局」と呼ばれていた。この翌年には道知先相先の七番を打ち、道知勝ち越しにより七段に進め、後見を解く。宝永5年(1708年)、名人九段に進むが、碁所には就かなかった。
宝永7年(1710年)、琉球国中山王の貢使随員の屋良里之子が因碩の斡旋により道知と三子局を打って中押勝ちするが、屋良に免状発行する必要が生じ、そのために因碩が碁所に就く。正徳3年(1713年)、『囲碁発陽論』を著わすが、門外不出とした。後に古今最高の詰碁集として、別名不断桜と呼ばれる。
元禄15年(1702年)に、道策門下の三崎策雲を跡目として井上因節とした。享保4年(1719年)死去し、因節が五世井上因碩となる。御城碁の通算成績は6勝3敗1ジゴ。弟子に、屋良里之子と対戦した相原可碩、後に井上策雲因碩の跡目となる高橋友碩らがいる。
