宝永
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前回の元禄改元の際に霊元上皇が希望して幕府が拒絶した案だったが、今回の改元の際には朝廷の案と幕府の希望が合致しなかったために採用されたと言われている。貞享・元禄の改元の時には朝廷が出した最終案の候補2つが両方幕府から拒絶されて再提出した経緯があったために、今回は最終案の候補を7つとして幕府に提出したが全て拒絶された。このため、再提出の際には候補に挙がった22の案が出され、幕府も最終的には「宝永」を選ぶ事で事態を収拾させた[1]。また、施行時にも京都市中への布告は改元から24日後の4月7日のことになり、近衛基煕を嘆かせた(当時、元号の施行権は幕府にあり、京都の朝廷から江戸の幕府への改元の告知→江戸城における公達→江戸から京都所司代への公達の通知→京都所司代から京都市中への布告の手続きを踏むことになっており、布告前に京都市民が新元号を使うことが禁じられていた)[2]。
出典
- 『旧唐書』の「寶祚惟永、暉光日新」から。
皇帝の徳が光り輝き、そして世の中を一新するという意味である。