井沼清七
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| 選手情報 | ||||
| ラテン文字 | Seishichi Inuma | |||
| 国籍 |
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| 競技 | トラック競技 (短距離走) | |||
| 種目 | 100m, 200m, 4×100mリレー | |||
| 大学 | 早稲田大学 | |||
| 生年月日 | 1907年7月27日 | |||
| 出身地 |
青森県北津軽郡中里村 (現・中泊町) | |||
| 没年月日 | 1973年10月1日 | |||
| 身長 | 165.6cm(1933年)[1] | |||
| 体重 | 61kg(1933年)[1] | |||
| オリンピック | 4×100mリレー 予選3組3着 (1928年) | |||
| 自己ベスト | ||||
| 100m | 10秒7(1932年)[注釈 1] | |||
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井沼 清七(いぬま せいしち、1907年7月27日 - 1973年10月1日[4])は、日本の男子陸上競技(短距離走)選手。青森県出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに4×100メートル (m)リレーで出場した。青森県初のオリンピック選手である[5]。
1907年、青森県北津軽郡中里村(現・中泊町)において[4][3]、井沼覚五郎の四男として生まれる[6]。井沼家は大地主で[6]、覚五郎は村政にたずさわり、郡会議員も務めた人物である[7][8]。兄の井沼豊助は実業家(津軽鉄道取締役、津軽酒造会社社長など)として活動し、第2代中里町長を務めるとともに[8]、青年相撲の振興にあたり、県相撲連盟幹部を務めた[8]。
中里尋常小学校高等科(現・中泊町立中里小学校)卒業後、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)に進む[4]。小学校の頃より運動会では常に一着であったというが[5]、中学校で陸上部に入り[4]、スプリンターとして頭角を現した[5]。1926年に第一早稲田高等学院に進学[4]。早稲田大学競走部では山本忠興の指導を受け、短距離走や4×100mリレーの選手として活動する[3]。特に、織田幹雄・南部忠平・大沢重憲らとチームを組んだリレーでは、複数回日本記録を更新している[9][10]。
早稲田大学商学部[11]在学中の1928年、アムステルダムオリンピックに、4×100mリレーの日本代表選手として参加。大沢・南部・相沢巌夫とともに4×100mリレーに出場したが、予選3位(43秒6)[注釈 2]で決勝には進めなかった[12]。井沼によれば、直前にオーダーを決定するチーム急造の状況となり[注釈 3]、バトンの接合がうまくいかなかったという[3]。なお、同メンバーで第2回国際学生大会(パリ)に参加し、43秒2の日本記録で2位の成績を残している[3][注釈 4]。
1931年に弘前市で開催された「第7回ス・ノ・ゴ三巴戦」(青森師範・青森中学・弘前中学3校の陸上競技クラブチーム対抗戦[注釈 5])に弘前中学OBとして参加、100m走で10秒9の記録を残した[14][5][注釈 6]。1931年の神宮大会(学生対一般対抗陸上競技大会)[注釈 7]では、学生代表として4×100メートルリレーに参加(走者は井沼・佐々木吉蔵・阿武巌夫・吉岡隆徳)、41秒6の日本記録を出した[1][10]。
大学卒業後は松坂屋に入社[1]。実業界でも足跡を残し、松坂屋常務取締役[4][3][11]・松栄食品社長を務めた[3]。陸上競技については指導者として、日本陸上競技連盟常務理事や評議員、東京陸上競技協会副会長に就任した[3]。
故郷である青森県への国民体育大会の誘致(1977年にあすなろ国体として実現)には、日本体育協会関係者との幅広い交友があることから積極的なバックアップを惜しまなかったが[18]、1973年10月1日に死去した[4][18]。66歳没[18]。