京都神田明神
京都にある祠
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概要
歴史
築土神社が祀られた頃、当時“市聖”とあがめられていた高僧の空也上人は京の都において、将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養したという。いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、細い路地に位置することから“膏薬の辻子(こうやくのずし)”として地名になったと伝わっている。明治2年に南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、現在の町名(新釜座町)に変えられるまではこの名で呼ばれていた。江戸時代の地誌類にはいくつかに掲げられている。『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載されている。 『拾遺都名所図会〜巻一〜』においても「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石[2]を建てて印とした」という内容が書かれている。 明治に入ってからの、『京都日出新聞』では将門の首塚を発見したという記事が載ったが、大正初年の『京都坊目誌』には将門との縁を否定する文が残されている。ここが東京の神田明神の本家であるという説もあるが、裏付ける資料は見つかっていない。


