仁嬪金氏
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1555年に、金漢祐と李氏夫人の次女として誕生した。幼い頃、遠縁でもあった慶嬪李氏に宮中で養育された。その後、明宗の正室仁順王后の目に止まり、女官となった。後日、仁順王后が宣祖に金氏を後宮にするよう薦めた。そして、金氏は、1573年に淑媛として冊封される。淑儀、昭容、貴人と昇格を重ね、1577年、恭嬪の死後、金氏が宣祖の寵愛を独占した。また彼女は、宣祖に恭嬪が生前に述べていた言葉は誤りであると丁寧に説明した。また恭嬪金氏以上に寵愛の独占欲が激しく、そのため9人の子宝にも恵まれた。
宣祖と金氏は次男の信城君を特に寵愛し、一時期は信城君が世子候補となっていた。しかし、信城君は文禄の役の最中に早世した。
1604年、仁穆王后が王妃に冊立された際、側室最高位 正一品の嬪 仁嬪に昇格した[2]。1606年には宣祖にとって待望の嫡男である永昌大君が生まれた。このため朝廷では世子の座を巡って恭嬪の次男光海君を推す大北派と、永昌大君を推す小北派に別れて激しい党争が起きる。金氏は光海君を推す大北派を擁護した為、光海君が王へ即位後も慕われた。金氏の姪に当たる昭媛辛氏は光海君の側室となっている。
1608年、宣祖が崩御後、喪に伏して宮殿を離れた。1613年に59歳で死去した。死後、英祖から慶恵の諡を与えられた。墓所の順康園は文化財庁により1991年に大韓民国指定史跡第356号として指定された[3]。