今出川教季 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 室町時代前期 - 後期生誕 応永32年(1425年)死没 文明15年12月19日(1484年1月17日)別名 号:法雲院 凡例今出川教季時代 室町時代前期 - 後期生誕 応永32年(1425年)死没 文明15年12月19日(1484年1月17日)別名 号:法雲院官位 従一位、左大臣主君 後花園天皇→後土御門天皇氏族 今出川家父母 父:今出川実富兄弟 公富、教季妻 正室:高倉永豊の娘子 公興、伏見宮邦高親王妃花押 テンプレートを表示 今出川 教季(いまでがわ のりすえ)は、室町時代前期から後期にかけての公卿。権大納言・今出川実富の次男。官位は従一位・左大臣。 初めは慈雲院(妙心寺内)に入れられていたようである[1]。史料によれば、教季が生まれる前の応永28年(1421年)には当時流行りの疫病によって祖父・公行や兄・公富が既に亡くなっており、そして正長元年(1428年)には父・実富までもが相次いで死去したため[1]、家の中核である左馬寮領が他家に分け与えられたり[1]、家芸である琵琶の楽器や楽譜が本家筋の西園寺家に接収されかけたり[1]と、今出川家は断絶の危機を迎えていた[1]が、同じく応永35年(1428年)に将軍が足利義持[注釈 1]から足利義教に代替わりし、今出川家と関係の深い伏見宮貞成親王の子・彦仁王が後花園天皇として即位したことが影響して、永享5年(1433年)頃には、当時9歳の教季に家督の相続が許された[注釈 2]。 やがて永享7年(1435年)、将軍・義教の後見の下で元服し、教季と名乗る[1]。「教」の字は義教から偏諱を受けたものと考えられ、これが今出川家歴代当主の中で初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受けた事例である。 その翌年の永享8年(1436年)に叙爵。以降累進して左近衛少将・左近衛中将・美濃権守を経て文安3年(1446年)に従三位となり、公卿に列する。参議・権中納言を経て、宝徳2年(1450年)に権大納言に任じられる。寛正元年(1460年)までの10年間にわたり権大納言に在職した。その間の長禄2年(1458年)には内教坊別当と親王家勅別当を兼務している。さらに寛正4年(1463年)には権大納言に再任している。同年右近衛大将に任官。寛正6年(1465年)内大臣に任じられるも、文正元年(1466年)に辞す。応仁元年(1467年)従一位を授与される。文明12年(1480年)に右大臣。さらに文明13年(1481年)には左大臣に任じられるもその翌年に官職を辞す。 系譜 父:今出川実富(?-1428) 母:不詳 正室:高倉永豊の娘 男子:今出川公興(1445/1446-1514) 生母不明の子女 女子:伏見宮邦高親王妃 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 厳密には前将軍であり、息子の5代将軍・足利義量の早世に伴って将軍職を代行していた。 ↑ 家芸である琵琶についても、祖父・公行から教えを受けた伏見宮貞成親王から教季へ伝授がなされ、"琵琶の家"としての再興も叶った[1]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 松薗斉「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に-」『愛知学院大学人間文化研究所紀要・人間文化』第25号、2010年、3頁。 参考史料は『看聞日記』。 表話編歴菊亭家8代当主 兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 - Related Articles