今田経忠
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出自
吉川氏の一族である今田氏に生まれる。父・今田経高(隠岐守)は吉川経世の子であり、安芸国山県郡今田(現在の広島県北広島町今田)を本拠としたことから今田を称した。経忠は嫡男として、父と共に吉川元春・元長・広家の三代にわたって仕えた。天正2年(1574年)には、父と連名で本拠地の今田八幡宮を再建しており、早くから後継者として活動していたことが確認される[1]。
伯耆戦線での活動
天正年間、織田信長勢力と結んで離反した伯耆国の南条元続・小鴨元清の討伐に従事した。 天正8年(1580年)2月、小鴨氏の拠点の一つである岩倉城(今倉城)を巡る攻防では、兵400を率いて伏兵を配し、小鴨軍を城下へ誘い出して撃退する武功を挙げた[2]。この時期、経忠は吉川軍の最前線で実戦部隊を指揮する「陣代」的な役割を担っていた。
津城合戦と軍事編成
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの一環として行われた津城合戦において、吉川広家の軍勢として参戦した。 近年の史料研究によれば、経忠は吉川家臣団の中で「打手(うちて)」と呼ばれる実戦の中核部隊を率いていたことが判明している[3]。合戦後の負傷者・戦死者リストである『伊勢国津城合戦手負討死注文』には、経忠配下の負傷者が複数名記録されており、城門突破などの激戦区に投入されていた実態が裏付けられている[3]。これは今田氏が吉川家中で高い軍事動員力と実務的な実戦能力を保持していたことを示すものである[3]。
江戸時代
関ヶ原の戦い後、主臣・吉川広家の岩国領移封に従い、周防国岩国へ移住した。岩国領においては家老職を務め、家臣団の序列においても最高位に位置づけられた。経忠の系統は、後に岩国領の運営を支える永代家老の家格として存続した。
人物・評価
- 戦国期の伏兵戦術から、関ヶ原期の組織化された攻城戦まで、長年にわたり吉川軍の主力指揮官として活躍した。
- 単なる武官ではなく、本拠地の整備や寺社の再建、領国の軍事編成の維持など、中世国人から近世家臣への移行期における実務能力も高く評価されている。