今西祐行
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大阪府中河内郡縄手村字六万寺(現東大阪市六万寺町)に生まれ[1][2]、奈良県生駒市で育つ。 1936年、旧制奈良県立奈良中学校(現・奈良県立奈良高等学校)に入学、5年間植物採集とテニスに熱中する[1]。 1940年、中学5年生の夏、病気になり大阪の病院に入院、この頃より文学書をむさぼり読む[1]。 1941年、第二早稲田高等学院入学。同年、大久保同胞教会(現在の日本基督教団新宿西教会)にて受洗[1][3]。
1942年、早大童話会に入り、坪田譲治を知る[1]。同年、童話会機関紙『童話界』に、最初の童話「ハコちゃん[注 1]」を発表、好評を博す[1]。同年9月、早稲田大学文学部仏文科に進学するが、病気のため12月より1年間休学[1]。 1943年、「ハコちゃん」が童話集『たのしい仲間』(天佑書房)に再録される。「<童話は一生の事業とするに足るか>ということばに対する答としてこの童話集を編んだ」という坪田の「あとがき」を読み、ひそかに童話作家になろうと心にきめた[4]。しかし「ハコちゃん」は、特別高等警察によって検閲され、抹消された[4]。同年12月10日、学徒出陣、大竹の海兵団に入る[4]。 1945年8月6日、原子爆弾が広島に落とされ、その翌日に救援隊として急行、5日間過ごす[1]。「あるハンノキの話」「ヒロシマのうた」「ゆみ子とつばめのおはか」等の作品は、この時の体験から生まれた[1]。
1947年9月、早稲田大学文学部卒業、国民図書刊行会に勤める[1]。 1949年、国井外喜子と結婚、西荻窪に住む。この年より10年間ほど、いくつもの出版社を転々とする[1]。 1956年、はじめての童話集『そらのひつじかい』を出版、児童文学者協会新人賞を受ける[1]。 1959年2月、11年間の編集者生活に区切りをつけ、文筆生活に入る[1]。
1963年、坪田譲治主催の童話雑誌『びわの実学校』に編集同人として参加、「肥後の石工」を連載する[1]。 1965年『肥後の石工』を出版、この作品により、日本児童文学者協会賞、国際アンデルセン賞国内賞、NHK児童文学奨励賞を受ける。 1969年、『浦上の旅人たち』により野間児童文芸賞授賞。同年12月、前進座により「肥後の石工」が新橋演舞場にて上演される(脚本:野口達二、演出:小沼一郎)[1][5]。 1981年、『光と風と雲と樹と』で小学館文学賞、日本児童文芸家協会賞、1986年、『マタルペシュペ物語』二部作で路傍の石文学賞、1991年、『今西祐行全集』で芸術選奨文部大臣賞および赤い鳥文学賞特別賞を受賞。1992年、紫綬褒章受章。
その他、「ヒロシマの歌」「一つの花[6]」「とうげのおおかみ」「ねことオルガン」「入れ歯をしたロバの話」「遥かなりローマ」など著作多数。主要著作は『今西祐行全集』(全15巻)として偕成社より刊行された。
1987年3月29日の日曜日、自宅のあった神奈川県津久井郡藤野町で、地元の人たちの協力も得て、私立「菅井農業小学校」を開校した[7]。そのきっかけとなった文の中で、今西は以下のように記している[8]。「百姓にかぎらず、人間のするほんとうの仕事というものは、何かを作りあげることでも、掘り出すことでもなく、自然の本当のみのりを待って耕すことではないか」