以心伝心

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以心伝心(いしんでんしん)は、(仏教用語、特に禅宗用語であり)仏法の奥義を、言葉や文字を使わず師の心から弟子の心に伝えること[1]。以心伝心は訓読みすると "心を以て心に伝う"(こころをもってこころにつたう)となる[2]

ことばでは言い表せない悟り真理を心から心へと伝えること[3]。主に禅宗で使う用語である[1]

禅の教科書では、禅の開祖・達磨大師の言葉「以心伝心、不立文字」(こころをもってこころにつたう、もじをたてず)にもとづくものだという[4]。達磨大師が以心伝心という言葉で言いたかったことは、釈尊の教えを自分のものにするには、その悟りを自分で体験するべきだ、ということであり、悟りは言葉だけでは伝わらず、師のもとで座禅や参禅や作務や托鉢にはげんで修行者が自分で自分のものにしなければ理解できない、ということである[4]。禅の教科書の著者は、自転車の乗り方を例に挙げている[4]。仮に「自転車の乗り方」という教科書があったとしてそれをいくら読んでも分からないし、親や兄・姉からいくら説明されても、自転車の乗り方はわからない[4]。自分で自転車にまたがりペダルに足を置いて漕いで進めるようになって初めて自転車の乗り方は分かる[4]。悟るということは、それと同じことなのであり、自分で体験することが最良の方法なのである[4]

しかも以心伝心という言葉は、単に漫然と経験すればいいというような低水準のことを意味しておらず、受け取る心が大切だという意味も含んでいる。たとえば、鳥の鳴き声を聞いて胸が弾むのは、一生懸命鳴く鳥の小さな命に感動する心があるからである。それと同じようなことが禅の修行にも欠かせない[4]。小鳥のありのままの姿を見て鳴き声を聞けば命そのものを感じることができる[4]。一方、それを「鳥」という言葉(記号)にして相手に伝え、聞いた側がその「鳥」という記号を頭でこねくりまわしても、肝心のものが伝わらない[4]。同様に、悟りも言葉にして伝えようとしても伝わらない[4]。言葉にして伝えようとするのではなく、師と弟子も、生身の人間と人間として接して、心から心へと伝わるもの、命のふれあいを大切にしないと、肝心のものが伝わらない、ということなのである[4]

なおブリタニカ百科事典では、唐の禅僧、慧能(えのう、638年 - 713年)が使った言葉とも解説している[5]

禅門では、以心伝心という用語が、不立文字教外別伝とともに標語となった[3]

もとになった故事

もともとこれは、釈尊霊鷲山で八万の大衆に向かい華(はな)をひねってみせたところ、弟子のなかでただひとり摩訶迦葉だけが釈尊の心を悟り微笑したという故事にもとづいている[3]。この故事は拈華微笑(ねんげみしょう)といい、悟りの内容が、言葉にしていないのに、そのまま師から弟子へと伝授されたことを端的に示す寓話である[3]

転用・比喩

脚注

関連項目

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