仲祇徳
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仲 祇徳(なか ぎとく)は、江戸時代の俳人。
来歴
初代祇徳(1702年(元禄15年)[1] - 1755年1月6日(宝暦4年11月24日)[2])、通称は近江屋伝兵衛[2]。初号は慈尺[1]、または字石[1]。のちに千朝[1]。号は湖南[1]、別号は水光・竹隠・自在庵など多数[2]。
江戸浅草蔵前の裕福な商家に生まれる[1][2]。父も俳人であり、水間沾徳らと交流があった[1]。1714年(正徳4年)頃から俳諧に親しみ[1]、1720年(享保5年)菊岡沾涼編『続福寿』に初入集[1]。1723年(享保8年)千朝を水光に改める[2]。1731年(享保16年)佐久間柳居らが『五色墨』を刊行して点取俳諧を批判すると、水光も共鳴して『四時観』を刊行した[2]。同年、敬慕していた稲津祇空が死去[2]。1735年(享保20年)俳諧活動から遠ざかるが[1]、門人の安処子によって、徂徠学に基づく『俳諧句選』が編まれた[2]。同書では、俳諧の古学と蕉風に戻ることを目指す「古学庸道」がはじめて説かれた[2]。のちに祇空の一字をとって祇徳と名を改めた[2]。1741年(元文6年)『一言庭訓』を刊行し、俳諧は人世を治める道であり、勝負や博打に使ってはならないと説いた[2]。