任祥
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経歴
任標と太原王氏のあいだの子として生まれた[7]。伯父の任桃が雲中軍将となると、任祥も任桃に従って雲中に住んだ。六鎮の乱が起こると、葛栄に従った。葛栄が敗れると、北魏に降り、鎮遠将軍・広寧郡太守に任じられ、西河県公の爵位を受けた[3][4][8]。
普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、任祥はこれに従い、魏郡公に封ぜられた。中興元年(同年)、光禄大夫に累進した。太昌元年(532年)、尚書左僕射に転じ、開府儀同三司に進んだ[3][4][9]。
永熙3年(534年)、孝武帝が関中に入ると、任祥は持節・南道大都督となって荊蛮を討った。天平元年(同年)、東魏が建国されると、侍中に任じられた。天平3年(536年)、范陽の盧仲延が河北の流人を率いて陽夏で叛くと、西兗州の民の田龍が人々を集めて乱に呼応したので、任祥は大都督・東道軍司として、都督の元整・叱列陀らを率いてこれを討った。まもなく行台僕射となり、驃騎大将軍・徐州刺史に任じられた。南朝梁が元慶和と諸将を派遣して国境を侵すと、任祥は南朝梁の仁州刺史の黄道始を北済陰で破り、また梁儁を単父で破って、捕虜1万人を斬った。再び侍中となった[10][4][9]。
天平4年(537年)、潁州長史の賀若徽が潁州刺史の田迅を捕らえて西魏に降ると、任祥は豫州刺史の堯雄らを率いてこれを討った。西魏が怡峯を派遣して来援すると、任祥らは敗れ、北豫州に撤退した。行台の侯景や司徒の高昂らと合流して、ともに潁川を攻め、これを落とした[11][12][9]。元象元年(538年)8月3日、鄴で死去した[7]。享年は45。使持節・太保・太尉公・録尚書事・都督冀定瀛幽安五州諸軍事・冀州刺史の位を追贈された[11][13][9]。