伊東悌次郎
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嘉永7年(1854年)、伊東佐太夫の次男に生まれた。母はすみ子[2]。
11歳で藩校日新館に入り、尚書塾一番組に編入され、その勤学を藩公から屡々賞賜を受けた。
大伯父の某氏は柔術に精しく、また砲術家山本覚馬の家と接近していたため、柔術も砲術も子供に似合わず上手であった。また、馬術も優れていた。
身長高く大柄だったので、父・左太夫は白虎二番士中隊の中隊頭日向内記に掛け合い、年齢を偽って二番士中隊士になった。出陣にあたり、かねてから強く所望していた名刀(備前兼光)を両親から与えられ、喜び勇んで出陣していったという[2]。
慶応4年8月22日、前藩主松平容保の護衛として滝沢本陣に向かい、進んで戸ノ口原に出陣、翌23日(1868年10月8日)に新政府軍との交戦に至ったが多勢に無勢で、退却を余儀なくされる。負傷した池上新太郎を助けているうちに、白虎二番士中隊の17人より遅れて飯盛山に着き、既に自決した同士の姿を見て、悌次郎も自刃したと伝えられる[2]。また、一説には池上新太郎・津田捨蔵とともに戸ノ口原で戦死したともされる[3]。享年15。
死後
戦後、悌次郎の親友・井深茂太郎の遺族が、占いで茂太郎の死地を探し当てた際、茂太郎の遺骸とともに悌次郎の遺骸も見つかった。遺族は、遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置き、遺髪のみを持ち帰って菩提所に葬ったという[2]。