伊藤明彦
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- 1936年 東京都生まれ。本籍地、山口県宇部市。8人きょうだいの末っ子。すぐ上の兄とは双子[2]。
- 1944年 銀行員だった父の仕事の関係で長崎市に転居[3][2]。
- 1945年 被爆当日の8月9日は山口県に縁故疎開していた。両親、姉たちは長崎市内で被爆。10日後、母に連れられて長崎市の自宅へ戻った。長崎市にて「入市被爆」、当時8歳[2]。中学・高校は私立海星学園[注釈 1]。
- 1960年 早稲田大学第一文学部(西洋史専攻)を卒業、長崎放送に就職[2]。
- 1968年 「被爆者の声」の取材をはじめ、ラジオ番組「被爆を語る」を企画、提案、同年11月5日に番組開始[4]。
- 1969年 番組開始後半年で佐世保支局に転勤を命じられる[2]。
- 1970年 長崎放送を退職。被爆者の声を録音するため、退職金で録音機を購入した[4]。東京に出て、日本電波ニュース社に勤務する[2]。
- 1972年 9月、日本電波ニュース社を退職。夜警や皿洗いなどをしながら、被爆証言取材活動を自費で続けた[5]。1972年から1980年までの8年間、北から南まで、約2000人の被爆者を訪ね歩いた(平均すると3日に2人を訪問したことになる)。しかし、半数の人には録音を断られた[6][注釈 2]。音声証言収録者数は、1,003名、オープンリールテープ951巻[9]。
- 1980年 『未来からの遺言―ある被爆者体験の伝記』を執筆。みかん箱の上で、えんぴつで書いた。3か月足らずで脱稿、同年4月に刊行[10]。
- 1982~1992年 取材証言をまとめた録音構成『被爆を語る』のオープンリール/カセットテープを各地の資料館や図書館に寄贈[注釈 3]。
- 2001年 第7回 平和・協同ジャーナリスト基金 基金賞 受賞[11]。
- 2001年 シチズン・オブ・ザ・イヤー 受賞[11]。
- 2006年 取材証言をまとめたCD作品『ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない』を各地の資料館や図書館に寄贈[11][注釈 4]。
- 2006年 第49回 日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞 特別賞 受賞[11]。
- 2006年11月から2009年1月にかけて、ビデオによる被爆証言取材活動を行う。ビデオ取材人数は、のべ349名[注釈 5]。
- 2006年11月~2007年11月 広島に滞在して取材
- 2007年11月~2008年10月 自宅(東京都・調布市)を拠点に関東近郊を取材
- 2008年10月~2009年1月 長崎に滞在して取材(取材半ばに体調を崩し、一時帰宅)
被爆を語る
伊藤明彦は、入社8年後の1968年11月からNBC長崎放送のラジオ番組「被爆を語る」をスタートさせた。第1回放送は、11月5日火曜日。偶然にも32歳の誕生日だった[4]。早朝の6分間、週3回の放送だった[4]。これは、被爆地の放送局として「被爆者の声」を収録するとともに、長期的に保存し、その一部を放送するという新しい企画提案であった。ライフワークと思っていたが、番組を担当してわずか半年後に、この番組の担当を社内の事情でおろされ、佐世保支局へ転勤させられた[13][2]。
その後、ラジオ番組「被爆を語る」は番組名を「長崎は証言する」に変更され、現在もなお毎週土曜日、朝6:40からの5分番組として長崎に在住している被爆体験者の声を取材して放送している[14][15][16]。
音声作品
- 1982~1984年制作・寄贈 オープンリール版「被爆を語る」(51人分52巻 約70時間)
- 全国14施設へ寄贈。
- 1989年制作 カセットテープ版「被爆を語る」(14人分14巻 約18時間30分)
- 1989年~92年夏 全国944施設へ寄贈。
- 2006年制作 CD作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(9枚組 約8時間40分)
- 2006年 全国547施設・団体・個人へ寄贈・贈呈(うち小部数は米国)。
