伊藤熊太郎
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1864年(元治元年)、士族の子として生まれた[1]。旅券の発行記録から、本籍地は東京府下谷区下谷南稲荷町(現台東区 東上野)であることが判明している[4]。
1881年(明治14年)頃、博物局の画工であった中島仰山に弟子入りした[5]。
1907年(明治40年)から1910年(明治43年)にかけて、米国水産局のヒュー・M・スミスに雇用され、アルバトロス号のフィリピン調査に乗船している。日本の魚類学者、刺胞動物研究者であった岸上鎌吉に画家として紹介された可能性がある[6]。1910年2月に下船し日本で過ごした後、同年11月に渡米し[7]、調査船で描いた下絵を彩色する仕事に約15年間従事したとみられる[8]。スミスは画家としての伊藤を高く評価し乗船中は日当3.5ドル、渡米の誘いでは一日5ドルなど、好条件を提示していた[9]。アルバトロスによるフィリピンにおける調査の際に描かれた魚類画の多くは、スミソニアン博物館に所蔵されている[2]。
その後、1927年(昭和2年)までには日本に帰国し[10][11]、1935年(昭和10年)までには死去したと推測される[12]。
アメリカの魚類学者ヴィクター・G.スプリンガーが伊藤熊太郎を研究し、その抄訳は1985年に日本の雑誌『アニマ』に掲載されている[13]。日本では、2016年に東京海洋大学図書館で開催された展示を契機として、荒俣宏が新たにスケッチ帖6冊、原画1,267 枚を発見した[2]。また、画集の原画100点が、テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』に登場し、高値がついた[14]。
伊藤の経歴などについては、生没年や子孫の有無なども含め、ほとんど明らかになっていなかった[15]。2020年代に入って生年等判明した情報もあるが、いまだ不明点が多い。アマチュアの研究者が、自身が1987年に古書店で購入した肉筆画の折本『魚譜』が伊藤の作品ではないかと考えて調査し、伊藤の経歴等について研究した一般書を2025年に刊行した[16]。『魚譜』の作者について客観的な証明はないが、美術史の研究者から描写力[17]を評価されている[16]。『魚譜』の絵全31点は2025年刊行書に掲載されている[18]。