伊集院頼久の乱
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発端
島津奥州家の7代当主、元久が病に倒れたため後継者を選ぶことになった。元久の子は出家していたため家督を継ぐことはできなかった。元久には弟の久豊がいたが、当時大隅・日向の国境を守備していた久豊が無断で敵対する伊東氏から妻を迎えていたため、元久との仲は険悪であった(なお、元久の子であった仲翁守邦は伊集院氏出身の石屋真梁を師としており、出家そのものが伊集院氏による工作があった可能性も指摘されている[1])。
このような状況の中で、島津家の重臣・伊集院頼久は元久の妹を室にしており、子の煕久(当時は初千代丸)は元久の甥にあたることから、煕久を後継者とするよう病床の元久に勧める。元久が死去すると、頼久は煕久を後継者にするとの遺言があったと公表、元久の葬儀を行った。これを聞きつけた久豊は葬儀中に位牌を奪うと、自らが葬儀を行い8代当主の座につく。しかし久豊の行動に憤った頼久は、反撃の機を窺っていた。
経過
結果
和解の条件として、伊集院頼久は後妻に久豊の女を迎えることになった。伊集院氏の所領は安堵され、頼久は家督を煕久に譲り自らは隠居する。また、伊集院氏と盟約を結んでいた伊作氏も和解に応じたため薩摩半島の戦いは終結に向かった。こうして伊集院頼久の乱と呼ばれる動乱は終結した。
ただし、伊集院頼久への支援をきっかけに始まった奥州家と総州家の争いは引き続き継続されることになる。