伏見宮貞致親王
江戸時代初期の皇族。伏見宮13代。式部卿。子に微巌院(1666-1668.6.25、母は家女房、美厳院、徽巖院)、正宮(1687-1689、正受院)
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生涯
出生
寛永9年(1632年)に伏見宮貞清親王の庶子として誕生する。生母は伏見宮家の遠縁にあたる安藤氏の女性であり、同時代の史料は「下戚腹」(身分の低い親族の女性の所生、の意)とのみ記されている。出生地は丹波国桑田郡千歳郷尾口村(現:京都府亀岡市千歳町千歳)であり、幼少期を同地で過ごしていることから、伏見宮家からの認知はされていなかったものと思われる(生母は、貞致親王が世に出たのち、家女房の身分と少納言の百官名、定子の名を賜ったものと思われる)[1]。幼名は「峯松君」といった。
若年期の事績については確定していないが、『忠利宿禰記』によると、12-13歳の時(寛永20年(1643年)-正保元年(1644年頃)に、丹波国から上洛し、京都西陣の刀鍛冶である西陣埋忠(明珍とも。『津田蔵書安藤家系』によると、峯松君の生母の妹が埋忠の妻であったとあり、埋忠は峰松君の義叔父になる)の弟子となって鍛冶に従事し、長九郞と称した。鍛冶の徒弟としては「殊のほか器用」であったというが、後述の経緯から峰松君が伏見宮家の後継候補に浮上したことから、慶安2年(1649年)、徒弟をやめて丹波の安藤家へ戻される。一部史料では、鍛冶の徒弟であった事実が臥せられており、宮家の後継者を徒弟に出していたことは安藤家として不都合であったためと思われる[2]。
宮家の後継争いの中で
この頃の伏見宮家は、貞清親王の継嗣として邦尚親王(峰松君の異母兄)が立てられていたが、病弱で子はなかった。これを受けて、宮家の諸大夫の間では、邦尚親王を廃する動きがあらわれ、内紛が発生。慶安2年11月16日、末弟(峰松君の異母弟)が親王宣下を受けて、邦道親王を名乗った。この両者の対立の中、峰松君は邦尚親王の後継候補として邦尚親王派の諸大夫に担ぎ出されたことにより、生家の安藤家に戻されたものと思われる[3]。
慶安4年(1651年)、峰松君は母の弟である安藤定次の邸から、本家の安藤定為(母の従弟)の邸へと引き取られる[4]。翌慶安5年(1652年)、峰松君は邦尚親王派の働きかけを受けた貞清親王に招かれる形で京へ戻り、宮邸に入る。しかし、これは当然、弟の邦尚親王派との争いを激化させ、邦尚派の諸大夫、生島盛勝と内本吉泰が、邦道親王の生母と共謀して貞清親王に讒言する等、追い落としの陰謀が行われる。承応2年(1653年)11月29日、邦尚親王が薨去したため、後ろ盾を失った峰松君らは敗北。峰松君は宮邸を追われ、かつて徒弟として使えた埋忠の下へ落ち着き、逼塞を余儀なくされる[5]。
承応3年(1654年)7月4日、貞清親王が薨御。宮号は予定通り邦道親王が継承したが、その邦道親王もそれからわずか半月後の同月21日、嗣子無くして薨御し、伏見宮家は継承者不在となってしまう。近親で残ったのは峰松君だけだったが、彼も直ちに継承するには至らず、以降6年間にわたり、伏見宮家は当主不在のまま宮家と諸大夫が残った状態であった。一説には、邦道親王派の諸大夫達の依頼を受けた後水尾法皇が、自身の皇子に宮号を継承させ、峰松君は出家させることを内意によって定めていたとされる[6]。
しかしこれに対して、峯松君に近い関係者が、道理に合わないと反発して、巻き返しに動く。中心となったのは、外戚の安藤定為、宮家と所縁の深い公家の庭田雅純、諸大夫の三木善頼であった。彼らは、武家伝奏であった清閑寺共房と野宮定逸、京都所司代の板倉重宗を経由して幕府へ訴え出て、法皇の内意を翻さんとする。安藤は江戸まで下向し、各方面へ折衝を行ったとされる[7]。
かくして万治3年(1660年)、幕命により峯松君は伏見宮の落胤であることが確定され、久我広通の後見のもとに伏見宮を継承。重宗自らが埋忠邸まで出迎えて宮邸へ渡御する。6月27日、峯松君は法皇の猶子となり、7月17日、親王宣下を受けて、貞致の名を賜った[8]。
その後
寛文2年(1662年)4月25日には和歌会を開いており、八条宮智忠親王も「香久山や天の岩戸も春に明て霞かかれる峯の真榊」という貞致親王を皇族として扱う歌を寄せていることからも、当時から貞致親王は皇族からも皇族(伏見宮家の子孫)であると認識されていたことがわかる[10]。
母親について
貞致親王の母は、伏見宮家の諸大夫であった三河守安藤藤原定元の娘・安藤定子である。慶長8年(1603年)生まれであり、伏見宮邦尚親王あるいは伏見宮貞清親王に仕えた。定子はその後出家して号は仙寿院と名乗ったが 寛永13年(1636年)5月3日に死没した。法号は慈眼院心和光清大姉であり、京千本浄光寺に墓があるという[11]。
一次史料である『忠利宿禰記』によると、貞致親王は「下戚腹(身分の低い女性との間に生まれた子供)」と記されており、『伏見宮系譜』や同系譜に引用された二次史料である「津田蔵書安藤家系」によると「家女房(少納言局 安藤氏、名定子)」「伏見殿諸大夫参河守安藤藤原定元の女定子」が母親であるとされる。赤坂恒明は、「安藤定子」の名前は貞致親王が伏見宮家を継承したのちに遡及して付けられたとしている。また、『伏見宮系譜』で「家女房(実質的な側室であり下戚腹と呼ばれるほど低い身分ではない)」とされたのも後世の遡及であるとしている[12]。
同じく『忠利宿禰記』には「丹波國□□ト云所ヘ養子ト成給」とあり、これは貞致が「十二三ノ時」より以前の幼少期のことであるから、貞致が母の実家である丹波国尾口村の安藤氏宅で出生した後、伏見宮家から認知されない落胤として処遇され、幼少期を丹波国で過ごしていたことがわかる[12]。
子女
出自に関する資料
貞致親王の出自に関する記述は複数あるが、全て貞致親王=伏見宮家の末裔であるという認識で一致している。逆に貞致親王の出自に対して疑問を抱いている資料や人物は存在しないため、当時から貞致親王は伏見宮家の末裔であると認識されていたことがわかる。
一次史料
貞致親王について記した一次史料は、大外記・壬生忠利の『忠利宿禰記』と、少外記・平田職俊が貞致親王薨去2年後の元禄9年(1696年)に編纂した親王家・公家系図、『諸家近代系図』の前田本が存在する。『諸家近代系図』において、貞致親王は貞清親王の子とされ、邦尚親王の弟として系線が引かれている[12]。
- 今日辰刻、伏見殿貞致親王宣下。次第。上卿先被遂著陣。藏人方吉書披見。辨賴孝(葉室)。吉書持參被返後、史下氣色如例。大史床子座有。請取氣色如例。追付陣儀。上卿(奧)。職事(賴孝)御名字下。今度御名字被書改由也。次上卿著端座。次以官人令敷軾。次以官人召辨(光雄(烏丸))。軾參御名字下給。於床子座前、史(利昭)給大史(忠利)。床子有請取之氣色如例。此間職事陣出テ、以權大納言藤原朝臣資行(柳原)貞致親王家可爲勅別當。職事退。次以官人召辨、仰云如職事。辨於床子座前史仰如職事。大史床子座有少史如例申之。次上卿以官人令撤軾、退出。上卿日野權大納言弘資卿。職事葉室左中辨賴孝。辨烏丸右少辨光雄。勅別當(【傍注】神宮傳奏也)柳原權大納言資行卿。左大史忠利。大外記師定朝臣。外記中原定慶。史小槻利昭。諸役人如例。巳刻退出、歸宅、宣旨調。貞致 右少辨藤原朝臣光雄傳宣。權大納言藤原朝臣弘資宣。奉 勅、宜爲親王者。萬治三年七月十七日 左大史兼主殿頭(算)博士小槻宿禰忠利(奉)權大納言藤原朝臣資行 右少辨藤原朝臣光雄傳宣。權大納言藤原朝臣弘資宣。奉 勅、件人宜爲貞致親王家別當者。 萬治三年七月十七日 左大史兼主殿頭(算)博士小槻宿禰忠利(奉) 如此宣旨貳通調。親王ノ宣旨、伏見殿亭へ持參。(中略)貞致親王は伏見殿□□親王の御子、丹波国□□と云所へ養子と成給、十二三ノ時西陣理忠(理力)と申鍛冶の弟子に御成十八歳迄名長九朗と申、今度御跡目之故吟味有之、再度世に出給事也、鍛冶も事外きょうの由取沙汰之、不思議之沙汰有之、委細重而可注事也、万事久我右大将廣通卿指南後見有之、邦道親王の御舎兄之由也、下戚之由也。(『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日庚午[10])
二次史料
- 貞致親王誕生以来承応元年貞清親王之依御招到于御帰洛之年二十一年之間於于定次宅奉養育也、定次者定元之男定子の弟也。(「伏見宮実録」[10])
- 貞致親王依讒言自承応二年到于萬治三年御沈淪、七年之間、母儀ノ妹ナル者依為明珍妻、於于明珍宅奉養育云々、明珍者理忠氏也。(「伏見宮実録」[10])
- 承応元年貞致親王御童形形廿一歳ニシテ自丹州御帰洛、是貞清親王ノ依御招也、到于茲於于定次ノ宅奉養育二十一年、此時宗氏供奉リ伏見殿諸大夫生島右京亮盛勝、内本左京亮吉泰等、興邦道親王ノ母儀謀テ、讒貞致親王於貞清親王、依之貞致親王御逼塞、承応三年七月四日貞清親王薨去、邦道親王薨去、貞致親王廿三歳伏見殿御惣領無紛之條就于傳奏閑院大納言野宮大納言所司代板倉周防守訴訟之萬治三年依于武命板倉周防守参入貞致親王逼塞ノ御所、而奉渡御親王沈淪七年、萬治三年七月廿七日元服後水尾院東福門院御猶子タリ、宗氏貞致親王ヲ二十一年於于定次宅奉養育亦先途之依功労蒙諸大夫ノ命云々。(「津田宗氏秘記」[10])
- 定為ハ寛永四年四月十四日抱琴園ニテ生レ、安藤新五郎ト称ス二十五歳ノ秋伏見殿貞致親王(時ニ二十歳)御母儀少納言(定為ノ姉、実ハ叔父定吉ノ娘)共ニ竹園ヲ出テ定為ノ家ニ依リタマフ、其故は貞清親王の御次男邦道親王の御母儀と御長男邦尚親王の母儀、寵をねたみ、且つその所生を立んとして讒言むつかしく其余響貞致親王及び御母儀少納言にまで及びたればなり、然るに承応三年七月、貞清親王及び御次男邦道親王モウチツヅキ御薨去、且つこれよりさき、御長男邦尚親王も既に御薨去にましませば正く竹園の御家督は貞致親王にまぎるる事なきなりしが、仙洞の皇子あまたましければ、江戸へ申させたまひて、伏見殿へ入れまいらせ、則ち貞清親王の御嗣たるべき貞致親王は御出家あるべき御内意にてありしかば、定為はこれを聞き竹園の一大事とし、庭田雅純朝臣・三木冬仲等と相議して貞清親王の御嫡孫にして邦尚親王の御子たる貞致親王のまします由を京都所司代板倉周防守より江戸へ執し申されん事を訴へらる、その程の労役或は防州の館又は江戸下向など、定為独り當り玉ふ、公儀明察にして仙洞の叡慮空くならせたまひ、貞清親王御利運をひらき、伏見殿御相続ましましけるはひとへに定為の力なりと世の人も感じ侍りけるとぞ。(「安藤家由緒書」定為ノ伝[10])
- (安藤定為)二十五歳の秋(一六五一年)、伏見殿貞清親王の御子邦尚王・邦道王の御母たち(をの々々家の女房にして異腹なり)事出きて邦尚の御子貞致王御母少納言の局(定明の養女。定為の姉なり。但し實は定吉のむすめにて侍り)共に伏見殿を出て定為の家に入て年月送りたまふ。後に邦尚も邦道も早世まし々々たれは、おのつから貞致王ハ伏見殿へ帰らせたまひて貞清親王の家督をうけたまひぬ。(『安藤略系』「長松軒惟翁の伝」[10])