会津御蔵入騒動

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会津御蔵入騒動(あいづおくらいりそうどう)は、江戸時代中期に陸奥国会津地方の南山御蔵入領で起こった百姓一揆五万石騒動南山一揆ともよばれる[1]

江戸幕府蔵入領で発生した百姓一揆であり、1720年(享保5年)10月に会津御蔵入領の百姓約800人が田島代官所を取り囲んで年貢減免を訴えたことから始まる[1][2]。この際の首謀者が投獄されたことを受け、1721年(享保6年)2月に小栗山喜四郎など15名が代表として江戸へ江戸へ登り、幕府勘定所へ13ヶ条の訴状を提出し、幕府の沙汰を待った[1]

対する幕府は江戸に出てきた代表たちを捕らえるとともに、代官を国許に派遣し、1722年(享保7年)7月には一揆に関与した者に田畑取り上げなどの処罰を下し、小栗山喜四郎は獄門に処される[1][3]

一方、幕府は代官の山田八郎兵衛を罷免し、南山を会津藩預地とすることによって、実質的に江戸廻米の中止や新税の一部廃止など、百姓の要求も一部実現されることとなった[2][4]

1928年(昭和3年)に田島町の丸山公園内に小栗山喜四郎らを顕彰する南山義民之碑が建てられる[5]

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