住谷悦治
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群馬県群馬郡国府村(現・高崎市東国分町[3])[4]に、父・住谷友太、母・軟の次男として生まれる[3]。旧制前橋中学校、旧制第二高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業[3]。同年吉野作造の推薦により同志社大学法学部助手となる[1]。1927年(昭和2年)に同大学教授となったが[5]、1933年(昭和8年)に治安維持法で逮捕され、職を辞す[4][6]。東京文藝春秋社欧州特派員として[3]1934年(昭和9年)に渡欧(1936年に帰国)[7][6]。1937年(昭和12年)に松山高等商業学校(現・松山大学)教授となるが[8][3]、著書『近世社会史』が発禁処分となり1942年(昭和17年)に同校を退職[6]。
1945年(昭和20年)10月に夕刊京都新聞社論説部長[3]、1946年(昭和21年)に同社長[3]、愛知大学教授となる[3]。
1949年(昭和24年)から同志社大学経済学部教授となり[3]、1950年(昭和25年)に経済学博士の学位を取得[3]。1953年(昭和28年)経済学部長[3]、同年日本学術会議会員[3]。1963年(昭和38年)には同志社総長に就任する[9]。1965年(昭和40年)に定年退職し、翌1966年(昭和41年)同大名誉教授となる[3]。
同志社総長には、1967年(昭和42年)と1971年(昭和46年)に再任され[3]、1985年(昭和60年)に名誉文化博士の称号を受けた[3]。
人物
二高在学中に叔父・住谷天来から受洗し、土井晩翠の影響を受けた[4]。東大法学部では吉野作造から民本主義を学び、新人会の活動に加わる。河上肇の著書に傾倒し社会主義に接近した[4]。また土民哲学を提唱したアナキストである石川三四郎を「生涯の先生」と慕い、交流を続けた[11]。
経済学史・社会思想史を専門とした。特に近代日本における社会思想史・社会主義運動史の研究で知られる。ジャーナリズム研究の先駆者でもある。住谷のジャーナリストとしての方法論の特徴は、現在の問題を過去の由来から批判的に検討する手法にある[12]。
ナチス・ドイツの失業対策について、住谷は「劣悪な環境下での公共事業など、強制労働に過ぎない」と指摘していた[13]。
評価
1939年の住谷の著作『リストの国家主義経済学』について、小林昇は「反理性的なナショナリズムが、この古典(フリードリッヒ・リストの著書『経済学の国民体系』)を利用することを退けている」と評している[16]。
家族・血縁
主著
- 『唯物史観より見たる経済学史』弘文堂、1926年
- 『社会主義経済思想史』春秋社、1929年
- 『経済学説の歴史性・階級性』弘文堂、1930年
- 『経済学史の基礎概念』改造社、1931年
- プロレタリアの社会学 社会科学への入門 労働問題研究所、1932
- 『日本経済学史の一齣 社会政策学会を中心として』大畑書店、1934年
- リストの国民主義経済学 河出書房、1939
- 『日本統制経済論』合資会社仲野印刷所、1939年
- 近世社会史 三笠書房、1941
- 大東亜共栄圏植民論 生活社、1942
- 経済学史概論 熊書房、1946
- 経済学史の方法論 熊書房、1946
- ユートピア社会主義 鱒書房、1946
- 新らしき平和 日本国民の進路 カニヤ書店 1946.6
- 社会科学の基礎理論 唯物史観の解説 有恒社 1948
- 『思想史的にみたる河上肇博士「貧乏物語」以前』教研社、1948年
- 『自由民権女性先駆者─楠瀬喜多子・岸田俊子・影山英子』文星堂、1948年
- 科学はどれだけ進歩したか 人文科学 四明書房 1949
- 社会思想史 京都印書館 1949
- 『私のジャーナリズム』積慶園、1954年
- 社会科学 三和書房 1956
- 経済学 三和書房 1957
- 経済学説史 三和書房 1957
- 『日本経済学史』ミネルヴァ書房、1958年
- 経済学総論 啓文社 1961
- 『河上肇(人物叢書)』吉川弘文館、1962年、新装版 1986年 ISBN 9784642050296、オンデマンド版 ISBN 9784642750295
- 社会科学論 法律文化社 1962
- 同志社の一隅から 法律文化社 1967
- あるこころの歴史 同志社大学住谷・篠部奨学金出版会 1968
- 日本経済学の源流 ラーネッド博士の人と思想 教文館 1969
- 鶏肋の籠 中央大学出版部 1970
- 『ラーネッド博士伝 人と思想』未來社、1973年