佐々木精治郎
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1885年12月8日、岩手県江刺郡黒石村長根(現:奥州市水沢黒石町字長根)の農家に7人兄弟の次男として生まれる[2]。実家はかつて庄屋を務めるほど豪農である[2]。1892年ごろ黒石村立博文尋常小学校(のちの奥州市立黒石小学校[3])に入学し、熊野神社神主より漢学を学んだ[4]。卒業後、当時村内には高等小学校が無いため、胆沢郡前沢町の前沢尋常高等小学校へ進み、のちに七光社同人となる村上隆一と自炊生活を始めた[5]。
家業である農業の道へ進むべく、1901年岩手県立農学校(現:岩手県立盛岡農業高等学校)を志望するも、受験に落ち、やむなく水沢町の農業補習学校に入学する[5]。翌1902年、再度受験を経て岩手県立農学校へ入学[6]。アメリカの機械化農業に関心を抱く[7]。1905年、同校を主席で卒業し、故郷黒石に帰り黒石農業補習学校の雇いとなる[8]。また黒石尋常高等小学校[3]の代用教員も兼務した[4]。同年12月、20歳の時に機械化農業を学ぶために当時300円の資金を持って渡米[8]。しかし、事業を失敗したことを機に画家への道を歩み始め、農業手伝い、皿洗いなどで美術学校入学の資金作りを始める[4]。
1909年、24歳でロサンゼルス美術学校に入学[9]。このころから常に紙とペンを持ち歩き、行く先々でよくスケッチをしており、そのスケッチは現在にも250枚以上残されている[10]。1915年、29歳でロサンゼルス美術学校を首席で卒業[11]。卒業証書には肖像画を学び、優秀な成績であったことが記載されている[10]。同地で個展を開催。
ロサンゼルス美術学校卒業後、特待生として絵画の本場フランス・パリへの留学を命じられるも、第一次世界大戦により取りやめられ、サンフランシスコのマーク・ホプキンス美術大学(のちのサンフランシスコ美術大学)へ進んだ[12]。翌1916年ニューヨークへ移り、ナショナル・アカデミー、アート・スチューデンツ・リーグで学び、1919年に卒業[13]。12月帰国[14]。
1920年、35歳のとき、七光社主催で第1回帰国個展を開催[15]。主として黒石在住の人を中心に肖像画を制作[4]。七光社は岩手の芸術団体で[11]、その仲間と正法寺を見学した時の様子などを記した「七光祭詣の記」は新聞連載も行われた。
39歳で九州福岡市で個展開催、42歳で盛岡個展開催後、1927年渡欧。パリ留学の夢を果たすため、42歳でフランスに旅立つ[16]。当地では、スペイン人の先生につき、主にモデルを雇って裸婦の研究に没頭した。
1928年サロン・ドートンヌ、サロン・ド・フランセイに出品[17]。翌年もサロン・ドートンヌに出品する[17]。またこの間日本美術大展覧会(1928年)やパリ1回展(1929年)に風景画や裸婦を出品。
1930年に帰国し、各地で個展を開催[14]。1933年には日動画廊でパステル画展を開催[14]。
1941年、岩手県水沢市(現:奥州市)で個展開催、岩手美術連盟結成に力を尽くす[17]。
1943年7月、58歳にして従軍画家として渡支[17]。
1971年11月28日、東京都世田谷区豪徳寺の自宅で没す[17]。85歳であった。
没後の2001年、甥夫妻が作品を水沢市(現:奥州市)へ寄贈した[1]。絵や資料など点数は1928点に及び、内訳は自画像などパステル画30点、デッサン260点、ペン画255点、油画14点、水彩画39点、写真687点などであった[1]。