白龍軒呼友による、明治26年(1893年)制作の「千葉県佐倉順天堂病院全景(博覧図)
順天堂では蘭学に熟達すること以上に、より良い医術の実践に力点を置き、塾生にも積極的に手術の助手を務めさせるなど実務教育を行った。高度な手術を麻酔なしで多数成功させ外科手術で名を馳せる[9]。文化元年(1804)華岡青洲は全身麻酔による乳癌の手術を成功させているが、当時の麻酔は副作用が強かったことから、佐藤泰然は手術のリスクを回避するため麻酔を使用せず、手術中患者は痛がったが、思ったより苦痛と出血は少なかったという[10]。
その内容は嘉永年間に実施された順天堂の医療記録「順天堂外科実験」や、安政年間の順天堂での治療費を記した「療治定」によって知ることができる[10]。
嘉永2年(1849)に天然痘の予防として種痘の接種が導入されると、藩医と塾生は藩内を回ってその接種を行った[10]。
佐倉藩は徳川家康の重臣である土井利勝が初代藩主で代々譜代大名が藩主を務め、房総では大藩であった。1868年(慶応4年)、戊辰戦争では新政府軍の征討軍が佐倉城に入城した時に、重臣の留守居役である平野縫殿(ぬい)が征討軍に恭順の意を示したことで佐倉城下は兵火から救われた[11]。東征大総督の命により、奥州白河に派遣され、藩医佐藤進[12]らが官軍負傷兵の手当てを行った。その際に掲げた野戦病院を示す病院旗[11]のレプリカ[4]が記念館内に展示されている。「病院」という呼称が初めて公に使用されたのは戊辰戦争の時と言われている。
明治2年(1869)12月に、順天堂2代目堂主の佐藤尚中は新政府の大学大博士に任じられ、上京して大学東校で西洋医学教育を始めた。ドイツ人の教師が来日したが、尚中の教育方針との対立から、彼は一切の官職を辞して、東京お茶の水に順天堂医院を創設して教育と診療を行った。
この時期から順天堂は二つに分かれて発展する。
佐藤尚中が創設したお茶の水の順天堂医院は、後に順天堂医学部となり法人化され現在に至る。一方、佐倉順天堂は佐藤尚中の養子になった岡本道庵(二代目佐藤舜海)[13]が後を継ぎ、房総最大の西洋式病院として発展させる。その後、恒二(つねじ)、郁哉(いくや)、強(つとむ)、仁(ひとし)と続き、現在は仁(ひとし)氏が記念館の隣で佐倉順天堂医院を経営している。
明治10年(1877)に起きた西南戦争は西郷隆盛討伐のため、政府軍が九州に集結した戦いである。維新後に起きた国内最大[14]の内戦で、たくさんの負傷者が出たことから、大阪に臨時に病院が設立された。当時の陸軍軍医総監の松本良順の勧めもあり佐藤進は病院長として軍医の指揮監督を行い、患者の治療にあたる。