佐竹永湖
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江戸三田の金方・加藤金之助の息子として生まれる。11歳のとき鳥取藩の沖一峨に師事し、土佐派・狩野派を習得し、泰峨と号した。安政4年(1857年)以前に、兄弟弟子の松本楓湖と共に佐竹永海の門に移る。永湖の号は、ある時井伊候の御前で揮毫した際、永海の「永」と井伊家の知行地にある琵琶湖の「湖」を取って永湖としたという。後に永海はその画力を認め長女[1]の婿とした。永湖は義父であり師である永海の下で谷文晁系正統の南北合流の画法を修めた。
維新後、一時生活難となり地方に遊歴したが、東京に戻ると第一、二回内国絵画共進会で銅印、第三回内国勧業博覧会で《魚藍観音》なで妙技二等賞を得て名声が高まった。日本美術協会を中心に活躍、宮内省の御用絵師となり内外の賓客の御前で揮毫する栄誉に浴した。日本画会の審査員をつとめ晩年は画壇の長老として敬われた。急性脳充血により死去、享年74。谷中霊園に墓がある。