佐藤季春
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古事談や十訓抄には、次のような内容で記述されている[1]。
康治元年(1142年)藤原師綱が国司として陸奥国に赴いたとき、陸奥国は奥州藤原氏第二代の藤原基衡の勢力が強く、国司の力も及ばないほどであった。そこで藤原師綱は国司の力を回復しようと、荘園の土地調査を始めた。 佐藤季春が藤原基衡の命令でこれを妨害したところ戦となり、国司の軍に多くの死者が出た。藤原師綱(国司)は大変怒って、藤原基衡の責任を問い詰めた。 予想外に事件が大きくなってしまったことに驚いた藤原基衡は、どうすれば良いか佐藤季春に相談した。佐藤季春は「あなたは何も知らなかったことにしてすべての罪を私に着せ、私を殺して藤原師綱(国司)の怒りを静めてください」と申し上げた。 藤原基衡は仕方がなく佐藤季春の言うとおりにすることにしたが、何とか佐藤季春の命だけは救おうと藤原師綱(国司)のもとへ良い馬・金・鷲の羽や絹などを届けて命乞いをしたが、藤原師綱(国司)は許さなかったので、泣く泣く佐藤季春とその子、弟など五人を殺した。