文政9年(1826年)、武蔵国に生まれる。祖父は御賄頭の佐藤清五郎、父は御勘定の佐藤金五郎であった。
天保14年(1843年)5月16日、部屋住の身分から召し出されて御勘定に任じられ、同年9月4日には父・金五郎の跡職を継いだ。弘化2年(1845年)11月18日、表御右筆に任命され、嘉永元年(1848年)12月27日には奥御右筆所留物方、安政3年(1856年)12月6日には奥御右筆に進んだ。
万延元年(1860年)の遣米使節に際しては、使節団がアメリカに持参した新書について、前田夏蔭が起草した文案を、将軍付き右筆であった佐藤清五郎が、生紙に金蒔絵の模様で清書したとされる。
慶応3年(1867年)、幕府が雇用していたフランス人陸軍教師の給与問題をめぐり、当初フランス陸軍省と仏貨フラン建てで締結された契約が、日本側実務担当のフロリ・ヘラルトによって一分銀建ての定額支給に変更された結果、相場下落により教師側に損失が生じた。この問題について、フランス公使の書翰や勘定書、外国奉行の上申書を踏まえ、佐藤清五郎は小栗上野介、織田和泉守、小野友五郎らとともに、契約を元のフラン建てに復すべきかどうかを評議した。
また佐藤清五郎は、慶応3年(1867年)から明治元年(1868年)にかけて勘定奉行を務めた。しかし、幕末政局において恭順派と抗戦派の対立が深まる中で小栗下ろしが発生した。小栗忠順の後任として朝比奈昌広が勘定奉行に就任した後、わずか半年の間に、佐藤は小野友五郎、小栗政寧らとともに揃って寄合席(無役)に落とされている。この人事については、朝比奈による内部工作の結果であったとする見解がある。また小栗と親しいだけ落とすやり方は恭順派内からも批判があった。