佐藤緑葉
From Wikipedia, the free encyclopedia
1886年(明治19年)群馬県吾妻郡五町田(東村を経て現・東吾妻町)の豪農の家に生まれる[4][5][2][3]。伯父・佐藤泰吉は初代東村長、父・佐藤島吉も8代村長を務めた[2]。家督を継承した利吉の弟・鴨三ものちに村長を務める。
中之条農学校(現・群馬県立吾妻中央高等学校)卒業後、渋川小学校で代用教員として勤める[4][2][3]。早稲田大学英文科に入学し、若山牧水や土岐善麿らと「北斗会」を結成[4][5][6][3]。回覧雑誌『北斗』を作る[5][6][3]。永代静雄の紹介により田山花袋と知り合う[3]。1906年(明治39年)『新聲』に小説「湖上の一致」を発表したのが作家としての処女作[5][6]。
1909年(明治42年)に早稲田大学英文科を卒業[5][3]。万朝報に入社して英文欄を担当した[4]。また同郷の旧家出身の田中董(とう)と恋愛結婚した[4][6]。1910年(明治43年)から翌年にかけては、『創作』の編集や作品発表を行っている[7]。1912年(大正元年)に創刊された『近代思想』に寄稿を協力し[5][7][3]、ウイルヘルム・ラムスズスの反戦文学『人間屠殺所』の翻訳を発表した[4][5][8][3]。1914年(大正3年)5月に散文詩と小品集『塑像』を出版[4][5][7]。1917年(大正6年)より文学雑誌『近代芸術』を主宰[5][3]。1921年(大正10年)には長篇小説『黎明』を出版した[5][3]。
1923年(大正12年)法政大学の予科講師となり、以後は創作活動から遠ざかる[5][3]。1924年(大正13年)からは東京女子専門学校(現・昭和女子大学)英文科講師もつとめた[3]。1928年(昭和3年)法政大学教授に就任[3]。1934年(昭和9年)に法政騒動で大学を追われるが1935年(昭和10年)に復職[3]。
1937年(昭和12年)に妻・董と死別し、1940年(昭和15年)に教え子・石川桂と再婚した[9][3]。1943年(昭和18年)から1946年(昭和21年)にかけては法政大学の職を離れ、郷里で若山牧水の評伝を執筆した[3]。
戦後の1946年(昭和21年)に東洋大学講師、1949年(昭和24年)に専任教授に就任[3]。1954年(昭和29年)に桂と離婚[3]。1959年(昭和34年)東洋大学を定年退職し、名誉教授となった[3]。
