佐藤美子
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1903年5月25日、神戸税関の職員の佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた [2][1]。兄に英夫、勇次、明来がいる。後に妹のミチが生まれた。姉の綾子は鹿児島県出身の弁護士で薬品貿易業を営む大嶺俊介の妻となる。
父の友太郎は長崎県出身の佐藤元狩の長男として文久2年8月に生まれた。元狩は維新後京都府に出仕しフィラデルフィア万国博覧会委員として渡米したが、1876年4月30日にサンフランシスコにおいて病死した。1877年、元領事のレオン・デュリーが帰国に際し、槇村正直京都府知事にフランスへの公費留学生の派遣を進言し、同行する8名の学生の1人に選ばれた。他に稲畑勝太郎、横田万寿之助、近藤徳太郎、今西直次郎、中西米次郎、歌原十三郎、横田重一がおり、一行はリヨンに到着した。友太郎はリモージュの官立美術学校に入学し、陶器製法を職人のゴルスに学び、卒業試験で優等銀杯を授けられた。この間リモージュの画工アルフレッド・ラトーの次女ルイズと結婚した。ルイズを伴って帰国後の1887年、農商務省御用掛となり、浜岡光哲や稲畑と共に紀伊郡深草村福稲に京都陶器会社を起こし、フランス式の機械で洋式の食器などを製造したが、欧化主義の失敗により社運は振るわず解散した。同年には欧米の商業視察のため浜岡光哲、高木才蔵、高松長四郎、稲畑、近藤と共に外遊した。その後、専売局技師、税関鑑定官、鑑定課長、検査課長などを務めた[3]。
4歳の頃、父の横浜税関への転勤をきっかけに横浜に住む。1911年、横浜市老松小学校に入学したが「あいのこ」であることを理由にいじめられたことをきっかけに、1911年9月に横浜紅蘭女学校(現横浜雙葉学園)に転校する[4]。父は後に青島守備軍司令附を務めた。幼少期に父に連れられて横浜山手で初めて見たゲーテ座のオペラ『カルメン』を見たことをきっかけにオペラ歌手を目指す。
1923年、東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科に入学し、1926年に卒業した[5]。ネトケ=レーヴェに師事[6]。1926年にNHK初のオペラ放送にメゾ・ソプラノ歌手として出演した[5]。田谷力三、松平里子、内田栄一らと「ヴォーカル・フォア」を結成した[5]。1929年ヴォーカル・フォアが『カルメン』全曲のコンサートを開き、以後「カルメンお美」と呼ばれるようになる[4]。