佐藤誠実
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国語国文教育の改善に関与
江戸の浅草(東京市浅草区北清島町、現在の台東区)の浄土真宗大谷派正行寺にて生まれる[2][3]。幼年期より同寺院の住職となった[4]。後に和漢の学問について学び始め[2]、漢学を安積艮斎に、国学を黒川春村から学んだ[3][1][2]。
明治維新により1872年(明治5年)に文部省(現在の文部科学省)に入省し[1]、後に帝国議会の前身である元老院で勤め始めた[4]。1880年(明治13年)には廣池千九郎らと共に『古事類苑』全355冊の編纂に携わる[3]。1883年に東京大学(1886年に帝国大学令によって帝国大学、1897年に東京帝国大学となる)御用掛兼務を命ぜられ古典科講師嘱託として教鞭を執った[3][1][2]。1891年に東京音楽学校教授に任じられたが、1895年に『古事類苑』の事業が神宮司庁に継承され編纂長となることを請われたことで、音楽学校教授の職を辞し古事類苑編纂長となり[3][1][2]、元老院生への編纂の指導に携わった[2][4]。
1893年(明治26年)9月に、普通教育における国語をいかに改善し、取り扱うかということについての相談会が高等師範学校で開かれた。高等師範学校の校長であった嘉納治五郎が文部省の命を受けて主導したものであるが、当時国語国文教育に尽力していた人々が招かれた。第一高等学校から高津鍬三郎、小中村義象、落合直文、那珂通世、市瀬禎太郎、学習院からは萩野由之、松井簡治、高等師範学校からは校長の嘉納治五郎と畠山健、そして文部省からは佐藤誠実である[5]。
東京帝国大学文科大学講師に招請される
1899年(明治32年)1月、東京帝国大学文科大学教授栗田寛の死去により国学の講座を担当する教員が内藤耻叟だけになったために、佐藤と萩野由之を講師として招聘することになったが、『古事類苑』の編纂で手一杯であるとして断った[6]。後にこの百科事典(正しくは類書というべき[7])を、1906年(明治40年)10月に完成させた[4]。
文学博士に認定
1899年(明治32年)3月に、村上専精、三嶋中洲、坪内雄蔵、大槻文彦、栗田寛(すでに死んでいたが危篤ということにした)らとともに文学博士に認定された[6][4]。