佐野政豊
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岡崎譜代佐野氏の分家、上野国甘楽郡内400石ないし下野国都賀郡内500石の旗本家に生まれる[5][6]。祖父は本家より養子入りした政矩で、大番組頭まで進んだ。父は小姓組を務めた政武で、寛延元年(1748年)に68歳で没している[7]。
父の死によって家督を継ぎ、同年将軍・徳川家重に御目見を果たす。宝暦元年(1752年)大番に入り、宝暦4年(1755年)新番に移る。宝暦12年(1763年)一旦辞職するが、明和8年(1771年)復職。安永元年(1773年)改めて新番を辞する[1]。翌年家督を嫡男・政言に譲るが、政言は天明4年(1784年)若年寄・田沼意知を殺傷する事件を起こし、切腹となっている[5][1]。天明7年(1787年)75歳で没した[1]。