何東
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生涯

ユダヤ人[1][2][3]の血を引くオランダ系イギリス人の父と香港人の母から生まれる。両親は正式な結婚でなく、父は事業の失敗後に蒸発してしまう。以後、母ひとりで何東たちを育てる。幼年期に私塾に通い、その後、名門である中央書院(今の皇仁書院)に進学し、1878年に優秀な成績で卒業した。
卒業後は貿易商社の「広東海関」に入社し、人脈づくりとヨーロッパとの貿易業務を担当した。1881年に辞職後、ジャーディン・マセソン商会に入社し、貿易業務と翻訳業務を担当する。業績が認められて、すぐに総買弁に抜擢される。1883年からはジャーディン・マセソン商会の買弁と同時に、設立したばかりの「香港火燭保険公司」と「広東保険公司」の総買弁も任される。さらに、自社の「何東公司」(Ho Tung & Company)も設立し、砂糖の売買を手がける。
弟の何福と何甘棠もジャーディン・マセソン商会に買弁として入社させ、自身は1894年にジャーディン・マセソン商会中国総経理に就任する。1900年に健康上の理由から辞職し、何福が後を継いだ。
ジャーディン・マセソン商会を辞職した後は、自身の商売に心血を注いだ。貿易業務以外にも運送業や不動産業にも進出した。また、1928年前後に経営難に陥っていた『工商日報』に資金提供し、経営再建に成功している。香港以外でも上海、青島、東北地方、マカオなどにも巨額の投資を行った。莫大な富を築く。
1922年、香港海員大罷工が発生した際は、その調停に奔走した。
晩年はキリスト教に入信した。また、50万ドルで信託慈善基金を設立。当時、香港最大の慈善家となり、貧困層救済に尽力した。「香港大老」と呼ばれた[4]。死後は、妻と同じ墓地に埋葬された。
