若い時は貧乏だったが、人となりは寬厚で成熟しており、体躯は大変に立派だった。また大いに飲食し、歌と女を好み、身持ちは倹約することもなく、そのために敬意を払う者は少なかった。楊洪が彼の才能を見抜き取り立てたところ、あっという間に楊洪と同格の太守にまで出世したため、人々は楊洪と彼を見い出した諸葛亮を賞賛した。
楊洪は朝会の度に何祗の隣に座っていたが、ある時ふざけて何祗を馬に例えて、君の馬はどうやったら走るのかと聞いた。何祗は馬が走ろうとしないのは、あなたが鞭を打とうしないからですと答えた。周りの人々はこれを伝えて笑い話とした。
張嶷が疾病にかかった際、彼の家は貧しかった。広漢太守であった何祗の名声が厚く義の人だと聞いていたため、張嶷は久しく交流の絶えていた何祗の元を訪ね、治療の面倒を見てもらえないかと頼んだ。何祗は財を傾けて援助し、数年かかって張嶷は回復した。
若いころ夢で井戸の中に桑(桒)が生え、夢占いの得意な趙直に相談したところ、趙直は「桒は本来井戸の中にあるものではないから、植え替えねばならない。桒の字は四つの十の下に八と書くので、あなたの寿命は恐らくこれを越える事はないだろう」と語った。何祗は「それだけ生きられれば十分です」と笑った。
広漢郡の王離という者は、才幹を認められて督軍従事となり、法を用いて公平に職務に当たり、しばらくすると何祗の代わりに犍為太守となった。彼の統治には美績があったが、聡明さでは何祗に及ばなかった一方で文辞の美しさは何祗を凌いでいた。