中国
東アジアの地域
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中国(ちゅうごく、繁: 中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の通称としても使用されている[1][2][3]。
中国では、最大の民族集団である漢民族を筆頭に、モンゴル、満洲などの様々な民族による複数の王朝が勃興と滅亡、分裂と統一を繰り返してきた。その過程で、中国全土は様々な民族の文化や風習が混ざり合った。そのため、地域の文明や民族を広く指し、紀元前からの文明・国家群の歴史の総体をも指す。
中国は人類文明の揺籃地の一つであり、何千年にもわたり文化形態を途切れることなく維持し続けてきた、現存する唯一の先住民族文明体でもある。中国の新石器時代、黄河流域では農業社会の集落連盟が現れ始め、長期にわたる定住型の城邦が形成された。紀元前27世紀頃には方国制度が出現し、共主を邦連の首領とした。前20世紀以降、古代中国は世襲の諸侯国が天子を擁立して構成される連邦的な封建時代へと入った。紀元前2世紀、戦国七雄の一つであった秦国が最終的に他の六国を滅ぼし、文字、通貨、度量衡を統一して、中国史上初の大統一を成し遂げた。その後二千年にわたり、中国の政治制度は中央集権的な郡県制を基礎とし、幾度もの拡張、決裂、再編を経て、数々の王朝交代による統一と分裂を繰り返してきた。そして1911年、辛亥革命によって清朝が打倒され中華民国が成立したことで、中国の政体は帝制から共和制へと移行した。
1945年に第二次国共内戦が勃発した後、中国共産党が中国の領土の大半を掌握し、1949年10月1日に中華人民共和国の樹立を宣言した。一方、中国国民党が政権を握る中華民国政府はその年の末に台湾へ移転し、現在まで続く中台分断の政治構造が形成された。冷戦期、双方はそれぞれ自らが中国の正統政権であると主張していた。国際連合システムにおいては、中華民国が国連創設以来「中国」の議席を保有していたが、1971年に「国連総会決議2758号」が採択されたことにより、中華人民共和国がこれに代わった。その後、1997年と1999年には、それぞれイギリスとポルトガルの植民地支配から香港とマカオが平和的に返還された[4]。
現在、国際社会の多くは「一つの中国」原則を認め、中華人民共和国政府を中国を代表する唯一の合法政権であると承認しているが[a]、一部の分離主義者や他国・組織の中には中国分裂論を主張し、台湾独立、香港独立、新疆独立、チベット独立、内蒙古独立、満州独立を支持する動きもある。そのうち台湾では、1990年代以降に台湾本土化運動が台頭したことで「二つの中国」や「一中一台(一つの中国、一つの台湾)」という概念が推し進められるようになり、これが台湾海峡ミサイル危機や2022年の台湾周辺での軍事演習などの事件を引き起こす要因となった。
中国経済は、かなり長い歴史的期間において世界の中で重要な地位を占めており、その周期は通常、王朝の興亡や交代と連動していた。中国経済史はいくつかの段階に分けることができる。第一段階は遠古から西晋の末年までであり、その中でも三国時代の孫呉の時期に大きな転換が見られた。第二段階は東晋から北宋の末年までであり、唐の安史の乱を境に前後半に分けられる。第三段階は南宋の建国からアヘン戦争までである[5]。明・清以降、保守的な対外政策による海禁の実施や、重農抑商思想および工業への軽視から、中国の工業化の進展は緩慢であった。一方、19世紀の産業革命を経た西洋諸国の工業製品は、数量・品質ともに、当時の中国の純粋な手工業経済による商品に対して圧倒的な優位性を誇っていた。同時に、西洋は産業革命の影響によって工業化の水準が大幅に向上し、工業を基盤とする経済も急速に発展したため、結果として中国の経済は西洋に後れをとることとなった。1978年の改革開放の実施以降、中国経済は急速な発展を遂げ、世界経済への影響力も日に日に増している[6]。
中国文化は数千年の歴史的変遷を経て、各地域や各民族の古代文化が長期にわたり互いに交流し、学び合い、融合し合った結果として形成されたものである。長期にわたる歴史の発展の中で、中国は多面的かつ一体的な「多元一体」の中華文化の構造を築き上げた[7]。その主体である漢文化は、日本、朝鮮、東南アジアに深い影響を与え、漢字文化圏を形成した。中国の伝統的な芸術形式には、国楽、相声、戯曲、書道、中国画、文学、陶磁器芸術、彫刻などがあり、伝統的な娯楽活動には、中国将棋(シャンチー)、囲碁、麻雀、中国武術などがある。茶、酒、料理、そして箸などは中国の特色ある飲食文化であり、春節(旧正月)、元宵節、清明節、端午節、七夕、中秋節、重陽節、冬至などは中国の伝統的な祝祭日である。中国は伝統的に儒教国家であり、農暦を暦法とし、五倫を道徳規範としてきた。春秋時代に孔子が「有教無類(教えありて類なし)、因材施教(才に応じて教えを施す)」を掲げて私塾を開き人材を育成し始めたのち、漢代には察挙制を採用して政府官僚を推薦・選出するようになり、隋代からは科挙を施行して平民の中から人材を抜擢するようになった。さらに、中国の各王朝には史官が置かれていたため、『二十四史』や『資治通鑑』などに代表される極めて詳細な歴史資料が保存されている。また、古代中国は科学の分野においても豊かな成果を上げていた。

名称
日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐・漢・唐土」の文字を用いて「とう・から・もろこし」と呼び、玄奘三蔵の訳業が輸入されてからは、仏教界で「支那」が利用され、明治時代に入り「支那」が一般化した。
chinaの起源は秦であり,ペルシャ語文献でも早い時期(6世紀)からchinと呼称されている。
西暦紀元前(西周時代)にはすでに「中国」の文字は文献に現れていた[8]。
- 『書経』の「梓材」に現れるもの
- 皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
- 『詩経』の「大雅」の「生民之什」の章の中の「民勞」に現れるもの
- 民亦勞止 汔可小康 惠此中國 以綏四方(この中国に恵あれ、四方安らかに)
- 無縱詭隨 以謹無良 式遏寇虐 憯不畏明
- 柔遠能邇 以定我王
その後の歴代王朝の正史二十四史でも使用され続けているが、その範囲と概念は時代とともに変化している。
古典的用法
元来の語義に基づくと、「中核となる城塞都市」を意味し、王・諸侯が統治した。西周時代では中原に所在する洛陽などの中核都市を指した[8]。

1963年に出土した「何尊」は西周成王時代(紀元前11世紀)の青銅器で、銘文に武王の言葉として「余其宅茲中国、自之乂民」と刻まれ、存在が確認されている中では最古の用例とされる。
意味の変遷

- 日本において朝貢する異族に対し、自国を「中国」と称した最古の表記例は『続日本紀』文武天皇3年(699年)7月19日条における「徳之島人が中国に渡来するのは、この時から始まった」の一文であり、中国に対して「日本」と初めて称した時期とほぼ一致する。
一方、黄河流域で黄河文明を営んでいた漢民族の前身となった都市を持つ部族国家連邦の民の国際社会では、「中国」という語は、王や覇者を中心とした秩序に基づくものであった。その後、中華思想に基づく「文化的優越性を持った世界の中心」という意味を帯び、秦始皇帝のこの地域の諸民族の統一に発する中国歴代王朝の政治的・軍事的な境界を設定する中で、徐々に形成されていった漢民族意識のアイデンティティを境界付ける自称として拡張されていった。
「中原」とは、黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原のことであり、しばしば「中国」と同義とされる。
「秦始皇は中国を防衛するため長城を建てた」と文書に記載されている[9]。漢書溝恤志卷29では「中國川原以百數」(いにしえより中国には何百もの山と原があり)[10]、前漢昭帝時代に書かれたとされる『塩鉄論』では、景帝時代までの領土及び地域を「中国」と称している[11]。
また、武帝が新規に征服した領域は「中国」と対置する領域として「辺境」と各所で記されてもいる[12]。しかし、武帝が新たに征服した領土を含む領域を「中国」と表現している箇所もある。武帝が支配した領域以外の地域を「外国」[13]と表記し、「外国」が「中国」と対置されている箇所があるからである[14]。このように、『塩鉄論』論争当時は、「中国」の概念は、武帝征服領土を含む場合と含まない場合が見られ、辺境郡を中国に含むかどうかで論者による認識のずれがあったようである。
周王朝時代の領域は「諸夏」[15]、漢高祖の平定領域は「九州」[16]、と各々使い分けて記載されている。この時代には、既に「中国」の領域が「中原」よりも広い地域に拡大し、自民族の伝統的領域と認識されている一方、王朝の支配領域全てが「中国」と認識されているわけではない用例があることを窺い知ることができる。
『塩鉄論』には一箇所だけ「漢國」の表記があり[17]、概ね「漢」に支配される領土は「中国」と同義とみられる[注 2]。
唐王朝に入ると「中国」の領域は更に拡大し、現在中国本土と呼ばれる領域が「中国」と認識されるようになっていた。例えば「唐興,蠻夷更盛衰,嘗與中國亢衡者有四:突厥、吐蕃、回鶻、雲南是也」とある[18]。韓愈は論仏骨表では「仏というものは、後漢代に中国に伝わったものであり、その前中国にはまだ仏は居なかったのです」と記している。
同時に「中国」は地理的な領域名だけではなく、王朝が現時点で支配している領土を意味するようにもなっていた[19]。
「中国」の領域認識は支配領域の拡大縮小と連動した。
通例では清朝末期以前は、「中国」は通史的意味合いを持たないとされているが、通史的な用例がまったくないわけではない。例えば「宋史列傳194儒林五/胡安國」では「自古中國強盛如漢武帝、唐太宗」(いにしえより中国は漢武帝や唐太宗の如く強く盛んであった)という記載があり、『魏志倭人伝』には「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使者が中国に来ると皆自分を大夫と称した)と記されている。
中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間で「中国」と同様の自称として用いられた。
「中心の国に住む優れた文化の担い手」という意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」と「華夏文化の優越性」という要素が共存していた。
中華思想においては、天の意志を代行する皇帝が、その徳をもって統治し、もし徳を失えば新たな家系に替わる。「中国」「中華」に対して、その四方に居住する周辺民族は「夷狄」として対置される。
11世紀以降の宋から明にかけて、宋明理学は大いに流行し、再び華夷秩序が強調されるようになった。また宋や明では異国文化を珍重し、外国人が宮廷で登用されることも珍しくなかった[20]。
中国の皇帝は西アジアの「諸王の王」に相当し、中国歴代王朝は、自らが人類で唯一の皇帝[注 3]であり、それ以外は中華世界における辺境に過ぎないという態度を取った。
対等な国が存在しないのだから、対等な関係の外交は存在せず、周辺民族との関係は全て朝貢という形式となる。逆に夷狄の王が中原を征服して中国に同化し、皇帝となることも可能であった。五胡十六国時代の諸国や南北朝時代の北朝、五代十国時代の突厥沙陀部系軍閥が中央権力の要を成した後半四代がこの典型である。しかし、遼・金・元・清の4王朝は、漢民族を支配して中華帝国の系統に属する王朝を作ったが、自民族の統治制度や文化も保持し続け、版図の一部を構成するに過ぎない漢民族地域に対しては、征服王朝として振る舞った。漢民族が直面したこのような現実に対して、宋学では華夷秩序が強調されるようになった。それに基づく、清の法律にも「外国人に対しては自分を中国と呼ぶ必要がある」と規定したことがある[21]。
日本でも、江戸時代以前に大陸を「中国」と呼んだ事例は見られない(幕末、「満洲夷」が自分たち自身を「中国」と呼んでいると紹介されることはあった[22])。
近代的用法

清代後半になると、近代化を果たした欧米列強の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、中国は諸外国と対等な国際社会の一員として自己を再定義する必要に迫られた。「中国」という用語の近代的な主権国家の概念での使用は、1842年に阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約で、漢文の「中国」が使われた近代的な国際条約が最初であると知られている。
1689年に調印されたネルチンスク条約では、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に「中国」という用語を満洲語で使った。ここでいう中国とは、満洲人の故郷である満洲と旧明領を皇帝直轄地として統治したことから、この領域を「真ん中の国」という意味として中国(満洲語:ᡩᡠᠯᡳᠮᠪᠠᡳ
ᡤᡠᡵᡠᠨ ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)と呼んだものである。
清朝政府が主権国家体制と国籍条例の重要性を認識し、国籍法に国名は「中国」を定めている[23]。20世紀初期、梁啓超は『中国史叙論』において、自国の主権国家の国名をどうするか悩み、「支那」は外国人が呼んだもので自ら命名したものではなく、「中華」「中国」は自尊自大で非難される、といずれも欠点があるとした上で、その中から便宜的に「中国」の国名使用を提案した[24][25]。
「中国」や「中国人」の範囲をどのように設定するかについては20世紀に入っても議論が続いた。たとえば共和革命のイデオローグ章炳麟は「中華民国解」[26]で中国の範囲を「先漢の郡県が設置された領域」、中国人を「黄帝の子孫」と定義、朝鮮(漢代に楽浪郡・帯方郡が置かれた)やベトナムを「中華民国が絶対回復すべき領域」、ビルマを「ややこれに次ぐ領域」とする一方、モンゴル(蒙古)やチベット(西蔵)、ウイグル(回部)は、漢代に郡県は置かれず、「三荒服の地」であったことから、中華民国に参加するのも自立するのも、彼ら自身に任せるべき、としている。孫文ら革命派は、清の他族は既に漢民族に同化しており[27]、満洲や蒙古も服属すると主張した[28]。一方、梁啓超ら立憲派は、各民族を一つにすることで、清の現在の領土を維持すべきと反論した[29][30][31]。双方の論争の中で主張は接近し、清の現行領土を保ったうえで各エスニックグループを融合して「中華民族」という一つの民族を作り上げる構想ができた[31]。
中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより中国の多民族的国家の正統性を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである[32]。 (New Qing Historyも参照)
辛亥革命では、「中華民国」と呼称されていたが[33]、共和勢力による政権獲得が現実のものとなっていくのに伴い、漢地の独立という理想論は影を潜め、清朝が1912年の段階まで連合していた「漢地・満洲・モンゴル・チベット・ウイグル」の範囲をそのまま枠組みとする「中国」で、近代的な国民国家の形成が目指されることとなった。しかし、そのような議論はモンゴルやチベット、ウイグルの人々の意思とは無関係に決められており[24]、実際には漢民族との連携を重視し始めた清朝に対する反発と諸外国の影響を受けて漢地地域以外では自立の動きがみられ、これらの地域の再統合は中華人民共和国の成立後に持ち越される事になる。
今日の中国では、漢民族以外の数多くの少数民族が居住しており、その数は中華人民共和国政府が公式に認定しているものだけでも55を数える[34]。なお、中華人民共和国憲法では漢民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定している[35]。
歴史
古代中国は幾度となく王朝交代を経験し、統一と分裂が交互に繰り返された。そのうち、統一期には秦・漢、西晋、隋・唐、北宋、元、明、清などがあり、分裂期には春秋戦国、三国、五胡十六国、南北朝、五代十国、遼・宋・夏・金などが挙げられる。
紀元前21世紀、禹の子である啓が中国初の世襲王朝である夏を興した。400余年後、湯が夏を打倒して殷を建国した。これは現在、考古学的に確認されている最初の中原王朝である。紀元前1046年頃、武王(姫発)が殷を滅ぼし周を興した。西周は武王、成王、康王の三代にわたる統治を経て、完備された礼治社会を築き上げ、成王と康王の在位期間は後世「成康の治」と称された。紀元前841年に起きた国人暴動は、中国史において確実な紀年が始まる契機となり、これ以降、周は衰退へと向かった。紀元前771年に西周が滅亡して東周が始まると、中原は諸侯が覇を競う春秋・戦国時代へと突入した。
紀元前221年、嬴政が六国を滅ぼして秦を興し、中国を統一した。これにより中国は封建制に終止符を打ち、中央集権的な君主統治の時代へと入った。紀元前207年に秦朝が滅亡すると、その後に続いた楚漢戦争において劉邦が項羽を破り、紀元前202年に漢(前漢)を建国した。前漢は「文景の治」、「漢武盛世」、「昭宣の治」を経て、国力は最初の輝かしい全盛期を迎え、西方のローマ帝国と並び立つ、世界に多大な影響力を持つ大帝国となった。王莽による短い新朝を経て、西暦25年に光武帝が後漢を再興した。しかし後漢末年、中国は再び分裂と戦乱の三国時代へと入る。280年、司馬炎が再統一を果たして西晋を建てた。それから間もなく「胡人」(北方の遊牧民族)が侵入し、北方には十六国の割拠政権が次々と樹立され、南方の東晋と並立した。420年に東晋が滅亡すると、劉裕によって南朝の宋が建てられ、一方の北方は439年に北魏によって統一され、中国は170余年に及ぶ南北朝対立の局面を迎えた。
581年、楊堅が隋朝を興し、589年に陳を滅ぼして再び中国を統一し、270年以上にわたる分裂局面に終止符を打った。618年、隋末の農民蜂起の中で李淵が唐朝を興すと、その子である太宗(李世民)の優れた統治により唐は全盛期へと向かい、これは歴史上「貞観の治」と称された。その後、唐は高宗および武則天による56年間の統治を経て、玄宗の治世における「開元の治」で頂点に達した。しかし、755年に起きた安史の乱以降、国勢は徐々に衰え、藩鎮割拠が形成される中、唐朝は907年に滅亡した。中華民族は唐朝を経験したことで、その国威が遠方にまで轟いたため、自らを「唐人」と称し、また他者からもそう呼ばれるようになった。唐の滅亡後、中国は分裂と動乱の五代十国時代に入った。後晋が契丹に燕雲十六州を割譲したことで、中原は北方からの防衛線である燕山長城の障壁を失った。960年、趙匡胤が陳橋の変を起こして宋朝(北宋)を建国した。北宋の統一戦争によって200年以上続いた藩鎮割拠は終結し、局部的統一が達成された。しかし、宋朝は燕雲十六州や河西回廊を奪還できなかったため、終始、契丹(遼)、西夏、金、モンゴル(元)からの脅威にさらされ続けた。宋朝は北宋期の防守(守勢)から、南宋期には領土を割譲して和を乞う形へと変わり、1141年以降、南宋と金が南北で対峙することとなった。最終的に1271年、チンギス・ハーンの孫であるクビライが元朝を興し、大都(現・北京市)に都を置いた。1276年に元が南宋を併呑したことで「大中国」の時代が幕を開け、今日の中国の版図の基礎が定まった。
1368年、朱元璋が軍を率いて元の大都を攻略し、明朝を建国した。明朝は永楽帝の治世に「永楽盛世」を迎え、この時期に鄭和の南海遠征が行われるなど、明の国力は頂点に達した。しかし、1449年に土木の変が起きると明は守勢へと転じ、モンゴル諸部族の脅威に対抗するために明長城の修築を進めた。「北虜南倭」の問題は長期にわたり解決されなかったが、これと同時にスペイン帝国やポルトガル帝国などのヨーロッパ諸国が台頭して海外拡張を進めたため、外国勢力が中国に流入し始め、戦争や衝突が勃発した。最終的に明朝は1644年、李自成によって滅ぼされた。同年、清兵が山海関を越えて中原に入り、清朝を興した。明の遺臣たちは南方で南明政権を建てたが、間もなく清朝によって滅ぼされた。一方、鄭成功は台湾でオランダ東インド会社の植民地支配者を打ち破り、明鄭の勢力を大員(台湾)に拡大させ、オランダ領フォルモサは崩壊した。1683年、清朝は明鄭を滅ぼしてその領土を中国の版図に組み入れ、全国統一を果たした。1689年には黒竜江流域でロシアと交戦したのち、ネルチンスク条約を締結し、初めて近代的な国境を画定した。その後、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代の皇帝によって「康乾盛世」と呼ばれる一時代が築かれた。
