何進滔

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何 進滔(か しんとう、生年不詳 - 840年)は、唐代軍人魏博節度使本貫霊州霊武県

魏博の食客として寄寓し、軍門を委ねられ、魏博節度使の田弘正に仕えた。田弘正が朝廷の命で鄆州を討ち、李師道を破ると、進滔は牙内都知兵馬使となり、功により侍御史を兼ねた。大和3年(829年)、魏博の軍衆が節度使の史憲誠を殺害し、進滔を知留後に立てた。朝廷により進滔は左散騎常侍・魏博等州節度観察処置等使に任じられた。魏博を統帥すること十数年、民衆の支持を得た。官は検校司徒同中書門下平章事を歴任した。開成5年(840年)、死去した。太傅の位を追贈された。は定といった[1][2]

家族

  • 曾祖父:何考物(霊州軍校)
  • 祖父:何俊(霊州軍校)
  • 父:何黙(夏州牙前兵馬使、検校太子賓客、太常寺卿)[1]
  • 子:何弘敬[3][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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