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俘虜情報局

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俘虜情報局(ふりょじょうほうきょく)は、日本において、俘虜(捕虜)に関する照会、名簿、通信、遺留品、金品などの情報事務を扱った機関である。名称の「俘虜」は当時の法令用語である。陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約の付属書第14条は、交戦国が開戦時に俘虜に関する情報局を設け、俘虜に関する照会に答えることを定めていた[1]。

日本では、日露戦争期の1904年(明治37年)2月、勅令第44号「俘虜情報局設置ノ件」により俘虜情報局が設置された[2][3]。その後、1914年(大正3年)には第一次世界大戦に際して勅令第192号「俘虜情報局官制」が定められた[4]。太平洋戦争期には、1941年(昭和16年)12月、勅令第1246号として「俘虜情報局官制」が定められ、俘虜情報局は陸軍大臣の管理に属する機関とされた[5][6]。

沿革

日露戦争期

1904年(明治37年)2月、勅令第44号「俘虜情報局設置ノ件」により俘虜情報局が設置された[2][3]。JACAR所収の公文類聚資料では、外務・陸軍・海軍の三大臣による請議について、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約附属規則に基づき俘虜情報局を設置しようとするものと説明されている[3]。

第一次世界大戦期

1914年(大正3年)9月、勅令第192号として「俘虜情報局官制」が定められた[4]。同官制の御署名原本は、国立公文書館デジタルアーカイブに「俘虜情報局官制・御署名原本・大正三年・勅令第百九十二号」として所蔵されている[4]。

太平洋戦争期

1941年(昭和16年)12月、勅令第1246号として「俘虜情報局官制」が定められた[5]。同官制は、俘虜情報局を陸軍大臣の管理に属するとし、東京に置くと定めた[6]。開戦時の俘虜情報局の設置について、陸戦条約第14条および俘虜待遇条約第77条の規定に沿うものとする整理もある[7]。

1942年(昭和17年)3月には、陸軍省軍務局に俘虜管理部が置かれた。同部は俘虜および軍抑留者の収容、取締り、交換、解放、利用、懲罰、待遇などを扱い、その部員は基本的に俘虜情報局員が兼務した[7]。

戦後

1945年(昭和20年)12月の改正では、俘虜情報局官制中の「陸軍大臣」が「第一復員大臣」に改められ、職員の資格や通報先も復員関係官署に対応する形へ改められた[8]。1946年(昭和21年)2月には、俘虜情報局が旧陸軍省俘虜管理部の業務を含む資料を作成しており、その内容には、俘虜情報局、陸軍省俘虜管理部、俘虜収容所、俘虜・軍抑留者の状況、引渡し、連合国側に俘虜となった者の状況、当時の俘虜情報局業務などが含まれている[9]。

敗戦後、俘虜情報局は第一復員省所管の下で人員を増加し、最大291名で整理作業に当たった[10]。1946年(昭和21年)1月以降はGHQの直接監理下に置かれ、戦犯裁判資料の調整提出業務と銘々票整備を中心とする俘虜業務に従事したとされる[10]。1941年官制は1949年(昭和24年)5月31日法律第127号により廃止されたとされる[5]。一方、1949年(昭和24年)6月より総理府附属機関となり、連合国への銘々票引き渡しが完了したのを受け、1957年(昭和32年)8月1日に廃止されたと説明されている場合もある[10]。

所掌事務

1941年の俘虜情報局官制は、同局の所掌事務として次の事項を掲げた[6]。

  • 俘虜の留置、移動、宣誓解放、交換、逃走、入院および死亡に関する状況の調査、ならびに銘々票の作成・補修。
  • 俘虜に関する状況の通信。
  • 宣誓解放、交換、逃走、病院・繃帯所・俘虜収容所で死亡した俘虜の遺留品および遺言書の保管と送付。
  • 俘虜に対する寄贈、および俘虜が発送する金銭・物品の取扱い。
  • 敵国戦死者について陸海軍が知得した事項、遺留品、遺言書、戦場で発見された遺留物の取扱い。
  • 敵国に俘虜となった者に関する状況の調査、および当該俘虜と日本国内の家族その他関係者との通信幇助。

俘虜情報局の業務として、俘虜の氏名、年齢、国籍、身分、階級、所属部隊、捕虜となった場所および年月日、収容所などの情報を集めて俘虜銘々票を作成し、中立国・中立機関を通じて相手国へ通報する業務、照会への回答、俘虜郵便および遺品の発受信などが挙げられている[10]。

組織

1941年官制では、俘虜情報局は東京に置かれた[6]。同官制は、俘虜情報局に長官1人および事務官4人を置き、事務官は必要に応じて増員できると定めた[6]。長官は陸軍将官、事務官は陸海軍の佐尉官または高等文官から補されることとされ、書記若干人も置かれた[6]。長官は陸軍大臣の指揮監督を受けて局務を掌理し、所管事務について陸海軍の関係部隊に通報を求めることができた[6]。防衛研究所の立川京一は、1941年官制における構成を、陸軍大臣の指揮監督を受ける長官1人、事務官4人以上、書記若干名としている[7]。

日米開戦後の1941年(昭和16年)12月27日に勅令第1246号をもって俘虜情報局官制が公布され、俘虜情報局は発足当初、長官以下25名の職員を抱えていたとされる[10]。同概要では、1948年(昭和23年)1月には俘虜情報局の長が長官から局長となったとされる[10]。

脚注

関連項目

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