信頼性主義

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信頼性主義(しんらいせいしゅぎ、英語: reliabilism)とは、哲学分野の認識論における理論群の一つで、正当化の理論としても知識の理論としても提唱されてきた。プロセス信頼性主義は、培養槽の中の脳の思考実験のような哲学的懐疑論に対する反論として用いられてきた[1]。プロセス信頼性主義は認識論的外在主義の一形態である[1]

概要

おおまかに言えば、信頼性主義的な知識の理論は次のようなものである。

p を任意の命題(たとえば「空は青い」)を表すものとする。このとき、ある人が p を知るのは、p が真であり、その人が p が真であると信じており、かつ p が真であるという信念に何らかの信頼可能な過程reliable process)をつうじて到達した場合、かつそのときに限る。

おおまかに言えば、信頼性主義的な正当化された信念の理論は次のように述べられる。

ある人が p という正当化された信念をもつのは、その信念が信頼可能な過程の結果である場合、かつそのときに限る。

さらに、「保証された信念」(warranted belief)や「認識論的に合理的な信念」(epistemically rational belief)といった観念についても、同様の説明を与えることができる(これの精緻なバージョンはアルヴィン・プランティンガによって与えられている)。

知識および正当化の信頼性主義的理論の主導的な提唱者には、アルヴィン・ゴールドマン、マーシャル・スウェイン、ケント・バック英語版、そしてより最近ではアルヴィン・プランティンガがいる。ゴールドマンの論文「知ることの因果説英語版」(Journal of Philosophy, 64 (1967), pp. 357–372)は一般に、この理論の最初の完全な扱いとされているが、D・M・アームストロングもまた重要な源泉とみなされており、(ヒュー・メラー英語版によれば)フランク・ラムゼイがそれと知らずに最初にこの理論を述べた最初の哲学者である。

「知識」の古典的または伝統的分析の一つは、「正当化された真なる信念」(justified true belief)である。ある命題についての知識についての妥当な主張をするには、「p」を信じることが正当化されていなければならず、かつ「p」が真でなければならない。ゲティア[2]がその反例を提唱して以来、伝統的分析は、知識は正当化された真なる信念以上のものでなければならない、というさらなる主張を含むようになった。信頼性主義的な知識の理論は、その理論に対する代替として提示されることもある。すなわち、正当化ではなく、信念が信頼可能な過程の産物であることだけが要請されるのである。しかし信頼性主義は、代替としてではなく、むしろ伝統的分析のさらなる明確化としてみなされることもありうる。この見方によれば、信頼性主義的な正当化の理論を提示する者たちは、「知識」の伝統的分析の「正当化」部分を、信頼可能な過程の観点からさらに分析している。すべての信頼性主義者が、こうした正当化の説明に同意するわけではないが、同意する者もいる。

反論

Template:出典の不足 正当化の信頼性主義に対して、それが外在主義を伴うがゆえに、これに難色を示す論者もいる。外在主義とは、ある信念を正当化する証拠やその他の事情を知らない(それに「アクセス」をもたない)にもかかわらず、知識をもち、あるいは正当化された信念をもちうるとする見方である。ほとんどの信頼性主義者は、信じている者がその信念を信頼可能なものにする過程について知らなかったり理解していなかったりしても、信念は正当化されたものでありえ、あるいは知識を構成しうる、と主張する。この見解を擁護するにあたって、信頼性主義者(および外在主義者一般)は、単純な知覚行為の例を指し示しがちである。窓の外の木に鳥がいるのを見て、それによってその木に鳥がいるという信念を得るとき、知覚の成功を説明する認知過程をまったく理解していないかもしれない。それでもなお、その過程が信頼可能な仕方で働いたという事実こそが、その信念が正当化される理由を説明する。要するに、鳥についての信念を抱いていることが分かり、その信念は(何であれ正当化されるとすれば)正当化されているが、しかしその信念をもつことを正当化した、当の信念へと至った過程についてはまったくよく知らないのである。

信頼性主義に対する最もよくある反論の一つで、初めはゴールドマンの知識についての信頼可能な過程の理論に向けられ、のちに他の信頼性主義的理論に向けられたものに、いわゆる「一般性問題」(generality problem)がある[3]。任意の正当化された信念(あるいは知識の事例)について、その信念が結果として生じる(同時並行的に作動する)多くの異なる「過程」を容易に同定することができる。私の窓の外の木に鳥がいるという信念は、感覚知覚にもとづいて信念を形成する過程、視覚的感覚知覚の過程、日中の不透明でない表面を通した視覚的感覚知覚の過程、というように、非常に特定的に記述される多種多様な過程の結果として扱われうる。これらの過程の一部は統計的に信頼可能でありうるが、他のものはそうでないかもしれない。いずれにせよ、信念をもたらした過程として何を述べるべきかをわれわれは選んでいるのではなく、過程を正確に記述しうる多くの異なる一般性のレベルのうちから、過程をどう記述するかを選んでいるのだと述べたほうがおそらくよいであろう。

これと類似する反論は、スティーヴン・スティッチThe Fragmentation of Reason のなかで定式化した。信頼性主義は通常、正当化された信念を生成するために、過程がある関連する可能なシナリオの集合において信頼可能でなければならないと考える。しかしスティッチによれば、これらのシナリオは文化的に偏った仕方で選ばれている。スティッチは知識や正当化の代替理論を擁護するのではなく、規範的な認識論的諸項のすべての説明が文化的に偏っており、その代わりにプラグマティックな説明のみが与えられうる、と論じる。

信頼性主義に対するもう一つの反論は「新しい悪魔の問題」(英語: new evil demon problem)と呼ばれる[4]。悪魔の問題はもともと懐疑論を動機づけたものだが、信頼性主義の説明への反論として次のように転用できる。われわれの経験が悪魔によって制御されているならば、われわれは実際にはなしていないことをなしていると信じている場合がありうる。しかし、これらの信念は明らかに正当化されている。ロバート・ブランダムは、信頼性主義的理論における信念の役割の明確化を求めてきた。ブランダムは、信念の役割が強調されないかぎり、信頼性主義は通常それをもつことができないとみなされるものに知識を帰属させかねない、と懸念する。ブランダムは次の例を挙げる。すなわち、赤い視覚刺激に対して「あれは赤い」と答えるよう一貫して訓練されたオウムがある。命題は真であり、それを生み出した仕組みは信頼可能だが、ブランダムはそのオウムが赤を見ていることを知っていると述べることをためらう。なぜならば、彼の考えでは、オウムはそれを信じることができないからである。ブランダムにとって信念は概念に関わる。後者なくして前者はありえない。概念は「理由を与えたり求めたりするゲーム」(the game of giving and asking for reasons)の産物である。それゆえブランダムにとって、社会的文脈において言語をつうじて推論しうる存在者のみが、信じ、それゆえ知識をもつことができる。ブランダムは、信じる者が信念が信頼可能である理由を内的にいくぶん理解しているかぎりにおいて、信頼可能な外的過程によって知識を説明することを認めることで、外在主義内在主義を混成しているとみなしうるかもしれない。

脚注

関連項目

外部リンク

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