俳画
From Wikipedia, the free encyclopedia
俳画の創始者には諸説あるが、一般に『立圃筆休息歌仙図』などの野々口立圃が知られている[4]。しかしそのルーツは中世の詩画軸にもとめることもでき、例えば渡辺崋山が俳画様式の祖とする松花堂昭乗は、牧谿の画風を受け継いで俳趣のある絵をものし、立圃への影響も指摘されている[3]。
談林俳諧においては井原西鶴も「画賛十二ヶ月」など俳画の連作を作っている。松尾芭蕉も俳画を残しており、一蝶、許六との合作などもあるほか、芭蕉の門人も多くが俳画をよくした[3]。また芭蕉の没後には、他の俳人らによる芭蕉顕彰の俳画が多数描かれている[5]。
近世後期には、文人画の大成者であり、写生的な句をものした与謝蕪村が『おくのほそ道図屏風』や『若竹図』などを描き、俳画を芸術の様式として完成させた[6] 。文化文政期には、渡辺崋山のように画家としての経歴をもつものが俳画を描く一方、小林一茶らは素人らしい素朴な俳画を残している[3]。
近代には正岡子規が、素朴な草花の水彩画を句に配し、その門人も俳画をよくしたが、以後俳画を手がける俳人は減少していった[3]。

