倉田水樋
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この水道は、本五島町の乙名である倉田次郎右衛門(くらた じろうえもん、元禄16年没[2])が私費を投じて創設したものである[3][2][4]。
長崎の町は元々水源に乏しく、生活用水や非常時の消火用水の不足が問題になっていた。寛文3年(1663年)の大火の際に水不足を痛感した次郎右衛門は、長崎のための水道を造ることを決意[2][1]。寛文7年(1667年)、許可を得て中島川の上流の現・伊良林1丁目付近の銭屋川を水源とする水道の敷設工事に着手した[3][2]。
この水道工事は市内36町に水樋を引き送水するというもので、多額の工費が必要となり、次郎右衛門が私財のほとんどを売却しても足りなかったため長崎奉行も白銀300枚の資金援助をした[2]。
水道が完成したのは延宝元年(1673年)のことであった[3][2]。奉行所では水樋係を新設し、その任を倉田氏に世襲させた[2]。以後、明治24年(1891年)に日本初の上水用ダムである本河内高部ダムが完成するまで、倉田水樋は200年余りにわたって長崎の住民に水を供給し続けた[1]。
