催造司 From Wikipedia, the free encyclopedia 催造司(さいぞうし)とは、日本の奈良時代の聖武朝の神亀前後から天平6年(734年)頃の平城宮造宮に関係する臨時の官を指す[1]。 『続日本紀』の神亀元年(724年)3月に、 壬午、始めて催造司(さいざうし)を置く とあるのが初見[2]。この時に任命されたのが誰であるのかは不明。天平2年(730年)9月に正四位下・左大弁の葛城王と従四位下・皇后宮大夫の小野牛養を、従来どほりの官職のまま、催造司の監(長官)に任命したとあり[3]、牛養は、天平6年(734年)5月1日の造仏所作物帳にも「大夫従四位下兼催造監」とあるため[4]、光明皇后が発願した興福寺堂塔仏像などの造宮に皇后宮大夫として責任をとったものと思われている[5]。 天平4年(732年)2月には、催造宮長官で、知河内和泉等国事を兼任する阿倍広庭が薨去したという記事が記されている[6]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 今泉隆雄「平城宮大極殿朝堂考」関晃先生還暦記念『日本古代史研究』 ↑ 『続日本紀』神亀元年3月23日条 ↑ 『続日本紀』天平2年9月27日 ↑ 『大日本古文書』巻一 - 553頁 ↑ 福山敏男「奈良時代に於ける興福寺西金堂の造営『日本建築史の研究』 ↑ 『続日本紀』天平4年2月22日条 参考文献 『続日本紀』2 新日本古典文学大系13 岩波書店、1990年 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles