光緒新政
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概要
1901年、西太后は各地の総督・巡撫に宛て改革案を募集する詔を発し、これに応じた湖広総督張之洞・両江総督劉坤一が「江楚会奏三折」を上奏、いくつかの案件も提出された。具体的には、「立憲君主制への移行」、「科挙の廃止をふくむ教育改革」、「新軍の建設」、「商業の奨励」などであり、政府高官から奏上された立案はおおむね戊戌の変法で指向された項目と一致していた。先にクーデターに因り戊戌の変法を潰した(戊戌の政変)西太后が似た方向性の改革を自ら推進しようとした背景には、義和団の乱の結果清朝の半植民地化が進み、民衆から清朝への批判が高まった事が挙げられる。しかし、西太后は以前から懸案だった科挙廃止と実務官吏や技術者を育成する学校教育、以前から進んでいた近代軍隊である新軍の増強、以前から問題視されていた職務の重複に因り非効率な官制の変革などには着手したものの、肝心の立憲君主制と議院内閣制は先送りした。
1905年、5大臣[1]を日欧米へ派遣して立憲君主制と責任内閣制を調査させ、翌1906年に予備立憲諭を発布し『欽定憲法大綱』公布と資政院及び諮議局の設置を実施したが、皇太后が大権を独裁し両機関が補佐する体制であり立憲君主制要素の無い代物であった。
西太后死亡後の1911年、官制を国務大臣13名から成る責任内閣制へと変更したが、これも満族が9人と漢族4人の倍以上であり且つ過半数の5人を皇族から任命する時代錯誤な物となった。
結局その準備過程と結果的な失敗により、中国における近代化の出発点である辛亥革命の下地となった。
「光緒新政」という名称は光緒年間に実施されたことによるが、光緒帝自身はすでに政治的地位を喪失していた。「光緒帝による新政」である戊戌の変法と混同される可能性があることから、中国でも台湾でも返還前の香港でも光緒新政とは呼ばれず日本独自の呼称である。