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全協刷新同盟

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全協刷新同盟(ぜんきょうさっしんどうめい:刷同)は、戦前に日本に存在したナショナルセンター「日本労働組合全国協議会」(全協)において1930年生じた―全協内組合の―反対派グループの組織。6月10日、結成。11月19日解散[1][2][3]

経緯

1929年11月20日ごろ、日本労働組合全国協議会(全協)は、産業別協議会結成方針から産業別単一労働組合即時結成方針(実効なきペーパー上の機械的な組織替え方針)として採択した[4][5][6][7][8][9][10][11][12]。これに対して傘下の関東出版、関東金属などが反対することにより、全協の内部対立が激化する。

すでに7月に、全協内日本共産党フラクション責任者で全協常任の佐藤秀一(関東出版)は、産業合理化に対する闘争こそ当面の全協の中心任務だと主張し、エセ革命団「赤色戦士同盟」シンパでも誤謬を改めれば排除しないという立場をとった。他方で、日本共産党中央組合部長前納善四郎は、組合は「氷水獲得闘争」のような経済的要求のみならず政治的要求をかかげて闘争すべきで党の統制下におかれるべきことを強く主張し、「赤色戦士同盟」シンパの排撃強行を要求した[13][14]。この対立は、7月30日の党フラクション・ビューローによる佐藤の除斥決定にまで発展した[15]。しかし、佐藤は、その支持者とともに全協中央部に踏みとどまり、新たな党フラクション・ビューローに対して反幹部運動を続けたため[16]、全協幹部派は、8月下旬に佐藤一派を常任委員会より罷免する挙に出て[17]、全協の分裂を招きかねない事態に陥っていた[6][18]

12月中旬以降、産業別単一労働組合結成方針が出されるや[19]、関東出版、関東金属などで機械的組織方針や非民主的運営に対する批判が続出したが[20]、全協本部は、批判者を反党的・規律攪乱者と規定して抑圧し、1930年2月、組織的処分をおこない、出版の佐藤秀一、木野欽一、手塚亮、金属の内野壮児、小澤道子らを一方的に除名し排除する[4][21]。2月23日に、佐藤が声明書「除名の真相を発表して全労働者諸君の批判に訴ふ」を発し、排除された側により全協の刷新運動を起こすに至った[4][1]。これに対し、全協本部は、出版・金属の支部や分会などを組織的にボイコットする[6]

このため[22]、6月1日多摩川神奈川県岸林中にて[23]、佐藤、大山某、關淑子、小澤、木内某、松岡某外一名、南巌(在モスコー東洋勤労者共産主義大学卒業生)らが刷新派合同会議を開催し、6月8日、各組合およびグループ代表者会議で全協内刷新同盟の結成を決議(結成声明書は6月10日付)し[23]、常任委員長を佐藤秀一とした(下の「組織」参照)[4]。そして、次のようにみずからを規定した。

「全国協議会内部ニ在リテ、幹部ノ宗派主義、日和見主義、敗北主義ト徹底的二闘争シ、全協を革命的労働組合トシテ強化スルコトヲ目的トスル一時的過渡的組織ナリ」[4]

このさい、全協幹部が大衆から孤立し大衆を獲得しようとせず、経済闘争を過小評価し、合法性奪取を放棄、統一戦線戦術を蔑視し改良主義組合内部での活動を放棄して、大衆に対する命令主義に堕し、大衆による批判の自由を否認している、と批判した[4][6]。また、労農党、南喜一一派による新連合体の建設の動きや、全協幹部の誤謬に傍観する分子・グループと戦うともした[1]

刷同の闘争方針は、「刷同結成声明書」(6月10日)によると、大衆を動員し闘争させることを根本に、

  1. 政治闘争を明確に見通しながら、日常闘争、経済闘争の先頭に立ち、
  2. 未組織労働者、婦人青少年労働者、農業林業漁業労働者を獲得して、失業者運動を革命的に指導し、
  3. 全国的結成を成就し、合法性を奪取する、
  4. 統一戦線戦術により、右翼中間派組合に革命的影響を与え、大衆的刷新派の結成のために闘争する、
  5. 工場委員会、失業者委員会などの労働者グループを結成する、
  6. ストライキ委員会、闘争委員会、工場代表者会議等を大衆的基盤で確立する、
  7. ストライキ戦術を適用し、大衆行動と潜行活動に習熟して、合法的舞台を活用する、
  8. 組合に党を代行させる福本主義に陥り、カンパニア機関を恒常的機関と混同する傾向を打破する、
  9. 実体の伴わない名ばかり組織を作り上げる傾向を打破する、
  10. 日和見主義的、宗派主義的、猪突主義的傾向を打破する、
  11. ボルシェビキ的自己批判を日常的に徹底し、大衆の創造的能動性の発揮を助成し、組合員の理論水準を高め、新幹部団の養成に努力する、
  12. 民主主義的中央集権制度の原則を確保する、
  13. 国際的連帯性を強め、国際的活動に積極的に参加する、とした[6]

参加者は、出版約50名、金属約20名だとみられる[4]

機関誌は「全協刷新ニュース」(第1号7月1日、第9号11月23日)。また、刷新同盟「パンフレット」(第1号6月30日、第3号10月8日)を発行した[4]

1930年8月15日~30日モスクワでのプロフィンテルン第5回大会に南巌を代表として派遣。同大会では、「日本に於ける革命的労働組合運動の任務」を決議[4][24]。9月10日、モスクアで南(変名:野崎)が全協刷新同盟の解散を声明[25]。10月17日、佐藤ら常任委員会は、「革命的自己批判ヲ展開シテ解体ノ準備二即時着手セヨ」の決議案を決定[4]、同月18日本所柳島同潤会アパートでの全協刷新同盟加盟組合代表者会議で分派の自己批判、解体準備を決する[26][27]。ただし、同時に、「解消ノ爲メノ闘争」、全協「再建ノ爲ノ闘争」を開始する[28]。11月19日市川国府台附近山中での同代表者会議で解散を決定[29][1][30][31][32]。「刷新同盟ニュース」(終刊号11月22日[33])で解散会議の状況を報告する。これに対し、11月25日、全協本部は、「刷新同盟解散に関する声明」を発し、刷同幹部の復帰を拒否しつつ、傘下大衆の自己批判復帰を求めた[4]

その後の全協への統一は難航、むしろ対立激化(とくに関東自由との)[34]。関東自由は、1931年4月20日の大会でプロフィンテルンに上告する決定をするも、帰国した南巌の説得もあってか、5月26日全協への無条件復帰へ。6月22日本郷千駄木町でプロフィンテルン代表報告会議を開き始めるや、神山・大沼・内野ほか4名の幹部が検挙さる(2か月留置)。8月24日、関東自由の解体正式決定、プロフィンテルンへの上告取消、日本土建への即時復帰[1]。しかし、神山の除名は取り消されず、内野は復帰するも9月にあらためて除名される[35]

組織

  1. 結成時
    • 常任委員長:佐藤秀一、常任委員:南巌、大山某(=神山茂夫)
  2. 7月
    • 常任委員長:佐藤秀一、常任委員:大山某、木内某、仮委員:小沢みち子。
    • 書記局:(責任者)佐藤秀一、(書記)大山某。
    • 各産別常任委員会:
      • (イ)出版―松岡、藤堂、木野、手塚。
      • (ロ)金属―小沢、内野、(仮委員)早川。
      • (ハ)関東自由―大山、木内。
      • (二)関東畜産―森田。
      • (ホ)交通―関淑子(まもなく引退)[4]
  3. 11月(11月5日に佐藤の検挙をうけ)
    • 常任委員:上山・宇田・荒木・小沼など[1]

回想

(*の付くものは、下の「外部リンク」にリンクが存在する。)

  • 内野壮児「日本共産党史の教訓(一五)全協刷新同盟の問題(一)」『労働運動研究』労働運動研究所、65, 1975-03, 59~64*。
  • 内野壮児「日本共産党史の教訓(一六)全協刷新同盟の問題(二)」『労働運動研究』労働運動研究所、67, 1975-05, 47~56*。
  • 内野壮児「日本共産党史の教訓(一七)全協刷新同盟の問題(三)」『労働運動研究』労働運動研究所、69, 1975-07, 58~64*。
  • 内野壮児「日本共産党史の教訓(一八)全協刷新同盟の問題(四)」『労働運動研究』労働運動研究所、71, 1975-09, 58~64*。

研究

(*の付くものは、下の「外部リンク」にリンクが存在する。)

  • 渡部徹『日本労働組合運動史:日本労働組合全国協議会を中心として』(京都大学人文科学研究所研究報告)、青木書店、1954.7*.

脚注

外部リンク

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