八七会
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結成経緯
終戦間もなく、豊川空襲の遺族たちによって豊川市新道町に墓や供養塔が建てられた(通称「諏訪墓地」)。1946年(昭和21年)9月23日には豊川稲荷の北西の地に豊川海軍工廠戦没者の供養塔(略称「供養塔」)が報国団によって建立され、台座には犠牲者一人一人の氏名が刻まれた。以後、供養の中心は自然に諏訪墓地から供養塔に移っていった。
一方、豊川海軍工廠共済病院時代から看護婦が中心となって結成していた「みどり会」が、豊川稲荷妙厳寺本堂で七回忌までの供養を行ってきた。十三回忌が近づくにつれ、工廠の全従業員で供養するように拡大していきたという声が出て、元医務部長であった福本元軍医大佐を初代会長にして「八七会」が結成されることとなった[2]。
1957年(昭和32年)8月7日の十三回忌には遺族を招待、供養塔前に約3,000名の遺族が集まり盛大な供養が行われ、これを契機に遺族への連絡や、慰霊祭を行う民間団体として、全従業員からなる八七会が正式に結成され[3]、以後遺族を招待して供養塔前での慰霊祭が八七会の行事となった[4]。
歴代会長
主な活動内容
活動の主な内容は次の四つに分類される。
- 供養行事
- 語り部としての活動
- 工廠と空襲の記録を残す活動
- 空襲の記録をビデオや出版物として残す。現存する戦争の傷跡を記録する[2]。
- 記念館建設にむけての活動
- 桜ヶ丘ミュージアム(豊川市)の展示に協力する。
- 記録や語り継ぎの拠点となる記念館の建設を目指してきたが、豊川海軍工廠平和公園として結実。その展示や豊川海軍工廠語り継ぎボランティアの育成に協力する[3]。
刊行物
- 大島信雄編『豊川空襲全殉難者名鑑 豊川海軍工廠(愛知県豊川市)壊滅』八七会、1987年8月7日。
- 巻頭挨拶:山本芳雄豊川市長(八七会名誉会長)、彦坂実会長
- B5叛、341ページ。2,800人を超える被害者(死者)を五十音順に並べ、本籍地、家族構成、空襲当日の行動などを記載する[10]。
- 企画編集(株)スタンバイ『『語り継ぐ豊川海軍工廠大空襲』』(VHS記録映画)八七会、愛知県豊川市、1992年4月1日。
- 彦坂実編集『元海軍工廠戦没者供養塔 写真集「平和の礎」』八七会、1993年8月7日。
- A4叛、21ページ。戦没者供養塔、永代供養霊位、慰霊祭、彼岸供養、盆供養、御霊祭その他の写真を載せる。被害者の氏名の刻まれた台座部分も全員分掲載している。
- (株)スタンバイ編『豊川海軍工廠の記録~陸に沈んだ兵器工場(豊川海軍工廠被爆50周年)』八七会、1995年8月7日。
- (株)スタンバイ編『豊川海軍工廠の記録~陸に沈んだ兵器工場 再発行改訂版(豊川海軍工廠被爆70周年)』これから出版、2005年8月7日。
退潮期
1981年(昭和56年)当時の会長柴田司郎は八七会幹部の高齢化を心配し、豊川海軍工廠工員養成所出身者で結成する豊養会に協力を要請した。1983年(昭和58年)には工員養成所第4期生の彦坂実が第5代会長に就任した。この頃までは豊川海軍共済病院の関係者が中心メンバーであり、また、会長と言っても名誉職的なところがあった。養成所出身者が会長になったことは会の中心が次の世代に移ったことを意味した。このころより石碑の建立が毎年のように行われ、次代への継承がより意識されていく。
2005年(平成17年)8月7日、60周年の慰霊祭を最後のものとし、以後慰霊祭を行わないこととなった。最年少の会員が70代となっており苦渋の決断であった。毎年の慰霊祭がなくなった後も、供養塔の清掃、犠牲者の供養、語り継ぎ活動は継続された。
2009年(平成21年)6月に彦坂会長が亡くなり第6代に大石辰己が就任すると、翌年の役員会で豊川市に平和公園を造る計画が話題となった。語り継ぎの拠点である記念館の建設は長らく会の悲願であり、その実現に向け、体験を語り、平和への思いを伝えることで支援することとなった。また、豊川海軍工廠語り継ぎボランティアの養成にも協力した。
2018年(平成30年)の豊川海軍工廠平和公園開園に際して、放送設備とともに多くの関連書籍や資料を寄贈。その書籍は園内の豊川市平和交流館にて「八七会文庫」として顕彰公開されている。
2021年(令和元年)9月大石会長が急逝。会員が高齢化した八七会は次の会長を選出することなく、翌年8月7日、会としての活動を終了した。[3]